Fate雑記(士凛特化)+あるふぁ

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クイズ

【異文化交流クイズ】【4-10回答】アメリカに帰ったクララと子供たち(勝海舟の実の孫たち)に梅太郎が送った手紙は何語で書かれていたか?

異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」シリーズ最終回の問題は、クララと別れた梅太郎が、アメリカに移住した長男ウォルター(梅久)宛に出した手紙は、ローマ字、英語、いずれで書かれていたでしょうか?」という、ズバリ二択問題でした。

クララと一緒にウォルターが日本を離れたのは14歳の時。それまで普通に考えれば日常会話は日本語で・・・と思われますので、そうするとローマ字で綴った・・・ように思われるのですが、意外や意外、正解は『英語』でした。

恐らくクララが元々英語の方をネイティブにするように子供たちを教育していたのでしょうね。

なおこのウォルターは生涯カジの性を名乗り続け、第一次世界大戦に志願兵として参加して市民権を得ていたこともあって、先の太平洋戦争時にも別段の迫害も受けなかったようです。そして驚くべき事に、ウォルターはこの『クララの日記』が初めて訳出された昭和49年の時点で88歳で存命しており、更に末娘のヒルダに至っては文庫版が出版された平成8年の段階で満百歳の誕生日を元気に迎えていた、というのですから更に驚きだったりします。

一方梅太郎の方はと云えば、クララと離縁した後、榎本武揚の縁戚である田崎このを後添えに迎え、二男一女を儲けますが、生来のお人好しと物ぐさのためにたちまち零落。

海舟門下の推薦で職を紹介されたりするのですが、あっさり断ってしまいます。なおこの際、紹介された職が『侍従』だったり『東京市長』だったりしたと云うのは・・・なんと云いますか「……いいのか、それ?」と思わざるを得ませんw。

そして晩年はまさに落魄の生活の後、クララに先立つこと11年前の1925年東京で病没します。

後の勝海舟の研究者たちが存命だった勝家の親族たちから得た証言はいずれも「屑のような人間だった」で一致しているという本当に困った人物だったようですが、彼はその最期に何を思ったことでしょう。。。

・・・しかしこの梶家の歴史はこれで終わりませんでした。

梅太郎と後妻との間に生まれた子の子、つまり梅太郎の孫は長じて女医になります。

彼女の前半生も大概おかしいのですが、最大の危機は昭和20年8月15日。

彼女はハルピンの病院で終戦の報を聞きます。そしてその数日後、完全無防備状態のその地にソ連軍が乱入。地獄絵図が幕を開けます。その中で勝海舟の曾孫である彼女は・・・という話はまた稿を改めて。

さて、ここで今回の出題のネタ元の発表。中公文庫よりタイトルもそのままに「勝海舟の嫁 クララの明治日記(上・下巻)」から本文は引用させて頂きました。

これまで御紹介させて頂いた通り、本当に面白い本ですので興味を持たれた方は是非ご購入を!

……とお勧めしたいところなのですが、実はこの本、既に絶版となっています。ただ古本価格はそれほど高騰していないので興味を持たれた方は是非。

ちなみに自分の手元には読書用、資料用(書き込みだらけでボロボロ)、保存用の3冊だけでなく、英語版、更にフランス語版まであったりします。

このうちフランス語版は以前3年ほどかけてクララの日記の詳細解説を毎週ブログにアップしていた際、毎週ブログを読んでいるというフランス在住の日本人の方が送って下さったもので宝物となっています(そのお礼にお持ちでないという日本語版をフランスに送らせて頂きました)。なおフランス語は一切読めないので完全にインテリアでしかありませんが(苦笑)。

さてシリーズの本当に最後に。

クララの日記に書かれて約80年後。その「約束」が果たされていたことが分かるエピソードを紹介してこのシリーズの終幕とします。

梅太郎と離縁し、子供を全て引き連れてアメリカに戻っていったクララ。しかし彼女と日本の縁は確かに、彼女の子孫達に引き継がれていました。

このシリーズでも何度か登場しましたが、後の第二代日銀総裁富田鉄之助には「縫」(旧姓は杉田)という奥さんがおり、彼女とクララは年齢の差を超え、非常に仲が良かったことは日記を通じて伝わってきます。

その縫夫人の叔父に杉田玄瑞という人物がいます。名前から察しの通り杉田玄白の後裔で医師で、この家にもクララは頻繁に出かけています。

その杉田家である日、その長男である武氏とその夫人は、自分たちの結婚式の話をクララに聞かせ、夫人が結婚式の際に着た立派な婚礼衣装を『貴女の結婚式にはこれを贈りましょう』と約束します。

そして遙か時は流れ、およそ80年後。

この「クララの日記」の訳者であり、逸子の姉疋田孝子の孫、一又民子さんがアメリカにクララの末娘のヒルダの元を訪れた時、ヒルダは上品な鼠色の縮緬の着物を着て出迎えました。これこそ、杉田氏がクララに贈ると約束した婚礼衣装であり、確かに彼女らの約束が果たされた証でした。

たとえ様々な事情で日本を離れることになっても、クララにとって日本での生活は本当に大切で、貴重な日々だった証とも云えるでしょう。。。

これにて「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」シリーズ全10回を終えさせて頂きます。

最後までお付き合い下さった方、有り難うございましたm(_)m。

【異文化交流クイズ】【4-10問題】勝海舟の子と結婚したクララのその後

異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」最終回は、明治19年に勝海舟の三男、勝(梶)梅太郎と結婚したクララのその後を。

クララの日記は来日当初から、人物批評は大変厳しかったりします。

少女らしい潔癖さの現れ、という見方も出来るわけですが、クララと知り合った当初はさほど有名人でなくとも、後世それなりに名前を残すことになる人物については、ちゃんと評価している所を見ると、クララの人物鑑定眼はそれなりのものがあったことが分かります。

ちなみに独身男性に関しての批評は、それなりに「意識して」記録している訳で、徳川家達の付き人的役割も果たしていた、大久保一翁の息子である三郎(後の東京帝国大学植物学教授)を巡っては、親友の逸子に対して、ささやかな「ライバル意識」もあったりと。

さて、そんな鑑定眼の鋭いクララから見た梅太郎ですが。

本当に当初だけこそ『梅太郎は頭が良い』と表現していますが、第8回で紹介したように褒め言葉は変わっていきます。

ぶっちゃけて云えば『紅顔の美少年で、当時の日本人としては背も飛び抜けて高く、いつまでも無邪気で子供っぽくて』……と、梅太郎に関してだけは、元々他の男性を判定する際の基準とは全く違ってます。弟(しかも駄目弟w)を溺愛するお姉さんは斯くの如きか、と思わされます。

但し、クララも当然の事ながら梅太郎がヘタれなことは理解している訳で、殆ど思いつきだけで「キリスト教系の大学に行って勉強する」「長崎に行って神父になる勉強をする」と突然言い出す梅太郎を「あなたには無理だからやめておきなさい」と日記の中でも必死に止めてます。

不思議なことに海舟は、梅太郎にもその弟の七郎にも、自分で特別な教育を施す気がなかったため(長男小鹿の死後は明らかに意図的に勝家を潰そうとしている)、勝家で自由奔放に遊んで過ごさせた結果、梅太郎は今で云う「ニート状態」になってしまってたわけで。「国際恋愛」「できちゃった結婚」「ニート」と、勝家だけは時代を百年以上先取りしていたわけですね!

と云う具合に、問答無用の生活無能力者である梅太郎ですが、嫁さんを貰った以上働かざるを得ず、最初は横浜のドック会社に勤め始めます(この会社の詳細は不明ですが、この造船ドックはサードシーズンで紹介した川田龍吉が製作したドックの可能性がかなり濃厚)。

ですが勤務先が勤務先だけあって週末しか戻ってこれず、しかも薄給と云うこともあってクララ自身も明治女学院で教鞭をとることになります。

後に梅太郎は東京の製綿工場に職場を変えますが、それでも六人の子供を抱えた暮らしは楽にならず、結局海舟に建てて貰った屋敷に住むことになります。

しかし杖とも柱とも頼むその海舟が明治32年1月、77歳で亡くなってしまいます。

そしてこれより1年4ケ月後、クララは梅太郎と一家の最後の記念写真を撮った後、梅太郎に別離を告げ、アメリカに引き上げていくことになります。

もっともこのクララのアメリカ行きは海舟の生前、既に許されていたことが、末娘のヒルダの自伝から分かります。

『私は、私たちのアメリカ行きが、勝のお祖父さんによって許されたものであることを知っています。お祖父さんは、西洋に深い共感をもっているお祖父さん自身がいなくなったら、アメリカ風の考えで育った私達が、日本での生活について行かれないのではないかと、思っていたからではなかったでしょうか』

かくして子供を引き連れてアメリカに渡ったクララですが、既にその地に身寄りはなく、ただ「有名な州立の師範学校がある」というのだけを頼りに、ペンシルバニア州に移り住みます。

そして勝家からの支援はあったものの、その地で立派に6人の子供を育て上げ、老後は末娘ヒルダの家で孫の世話をし、1936年、脳溢血で波乱に富んだ生涯を終えることになります。

さて、ここで今シリーズのラストクエスチョン。

クララ帰国後間もなく、梅太郎が日本から出した手紙が今なお残されています。

そこにはクララへの、そして長男ウォルターへの、父親としての心情の籠もった言葉が綴られていますが、さて梅太郎がウォルター宛に出した手紙は、ローマ字、英語、何れで書かれていたでしょう? 

今回はラスト問題ということで、ズバリ二択で!

【異文化交流クイズ】【4-9回答】クララの母が英語教師を依頼されていた大山巌の娘が後にモデルになった有名小説は?

異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第9回はクララの母親アンナが生前大山巌に「娘に英語を教えて欲しい」と頼まれていましたが、この娘さん――大山信子は後に日本を代表する某有名作家の代表作のモデルとなりますが、その作家とは誰でしょう? という問題でした。

今回の正解は・・・『徳富蘆花』その代表作とは『不如帰』でした。

タイトルだけは日本史または国語の教科書で見たことがあるかも知れませんが、今では明治文学好きの方くらいしか読んでいないでしょうからサラっとあらすじを紹介。

『元々は望まぬ嫁ぎ先で結核に罹り、その頃には愛しあうようになっていた夫と無理矢理離縁させられ、僅か19歳で死に臨んだ際、「最早婦人なんぞに生まれはしませんよ」と言い残す話』

元を正すとこの小説、巷間に伝わった『最早婦人なんぞに生まれはしませんよ』という言葉だけをヒントに徳富蘆花が書き上げた「フィクション」なのですが、世間一般ではこの「小説」を「実録」「ノンフィクション」として捉えてしまったから小説のモデルに勝手にされてしまった関係者はさあ大変。

大山家だけでなく、嫁ぎ先の三島家(自由民権弾圧で元々悪名高かった三島通庸の家)を巻き込んで大炎上・・・という展開を見せるのですが以下省略。詳細を知りたい方はwikiなどで。

ともあれ大山巌とも山川捨松とも親しかったクララは、事の顛末はをどんな気持ちで見ていたことでしょう。

なお山川捨松と共に米留学した津田梅子はこの頃まだアメリカであり、その父津田仙とも大変仲の良かったクララが梅子と大の親友になるのももう少し先のことになります。

さて、本筋に戻りましてその後のクララですが。

ここまでの経緯を書けば予想できるかと思いますが、クララは弟のように可愛がってきた梅太郎と熱烈な恋愛結婚をすることになります。

が、結婚前後の所は残念ながら日記には記されていません。ただ実際は「あるけど公表できなかった」もしくは「廃棄した」という可能性もあるかと。

何故かと云えば・・・有名な『海舟日記』の該当部分を読めば大体事情が察せられるわけで。

明治19年4月9日分にこうあります。

『目賀田(逸子の旦那)、梅太郎の事につき内話、富田(ホイットニー家来日の最初のきっかけを作った人物)へ話さる由』

これはクララが「切羽詰まって」逸子に相談したことがきっかけのようです。

何故かと云えばこの時点で・・・『クララが梅太郎の子供を宿して既に六ヶ月』になっていたからであって。

今でこそ「できちゃった結婚」は全然珍しくありませんが、まだ明治の初めのことですし、しかも国際恋愛。

周囲にも梅太郎と『そう云う関係』になっていたことを隠していたわけで、戒律に厳しかったクララとしてはどんな心境だったのだろうかと。

ただ元々クララが勝家にとっては家族同然だったこともあって話はトントン拍子に進みます。

勿論それなりに色々あったことは短いながらも『海舟日記』から察せられますが、翌5月4日には婚礼のことまで滞りなく決まったようです。

明治19年9月1日、クララは梅太郎との子であり、海舟には孫にあたる男子を出産します。

名前は英語名はウォルター、日本名は梅久。

この後はもう年子のようなもので、長女和気(アデライン)、次女喜乃(ウィニフレッド)、三女幸(メーベル)、四女礼(エルザ)、五女勇(ヒルダ)と続きます。

つまり海舟は合計6人もの『青い目の孫』に恵まれたわけです。

ちなみに日本名は全て海舟が名付けたと云うことですから、やはり孫は本当に可愛かったのでしょう。

ですが・・・クララの人生は、そしてクララの子供達の運命はまだまだ流転していくことになります。

次回「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」最終回でその顛末を語らせて頂きます。

【異文化交流クイズ】【4-9問題】再来日したクララ一家の運命の変転

異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第9回は、クララの運命の変転を。

明治13年(1880年)1月26日、先発した父親を追って日本を離れたクララ達一行はスエズ運河経由でまず倫敦へ向かいます。当地には森有礼夫妻徳川家達がいて出迎えてくれたのは既に書きましたが、当地でクララは親友の逸子が目賀田種太郎(後の男爵)と結婚することになったことを聞かされます。

この後、クララ一家はフィラデルフィアに移り、1882年初頭、再び日本への来日準備を始めます。

が、この頃から急速に父親の容態が悪化。再びヨーロッパ経由で日本に向かった一家ですが、父親は8月末、倫敦で客死。

それでも母アンナは来日を断念しませんでした。そこまでして来日に拘ったアンナの心境はクララの日記には記されていませんが、キリスト教の伝道と、長男ウイリスをクリスチャンドクターとして日本で働かせたいという希望があったようです。

『かくてエホバは、彼らを望むところの湊にみちびき給う』(詩編107・30)

彼らが横浜に到着したのは明治15年(1882年)の11月のことでした。

『これは私たちが、21日――この数年間、私たちの希望のメッカであった東京の地を再び踏んだ日に、頭に浮かんだ聖句である』

もうこの頃には故国アメリカより、クララの気持ちが完全に日本に移っていたことが分かります。

逸子は既に結婚して一児の母になっていましたでしたが、それでも相変わらず愉快な娘さんだったらしく、勝家の方でもたみ夫人を筆頭に、再び勝家の敷地内の家で暮らせるように改築してまで出迎えています。

ですが何よりクララを喜ばせたのは梅太郎の変わりぶりでした。

『祝福あれ、若者。彼は十九歳の大柄な若人に成長し、物腰も控え目で落ち着いているが、何より素晴らしいのは、すっかり心が変わったことである。まったく信心深いクリスチャンになったのである。それは色々な振る舞いに表れている。たとえばある夜、お茶の後、梅太郎は敬虔な態度でテーブルの側に頭を垂れて感謝のお祈りをしたので、こちらが非難されたような気がした。昨夜母に「全て、限りなき生命に定められたる者は加えられけり(使徒行伝13/48)」という聖書の一節の意味を尋ねた。良い青年で私たちは彼を誇りに思う』

ですが梅太郎と再会した喜びも束の間、今度は母アンナが来日一ヶ月足らずで発病し、クララの必死の看病も虚しく、翌年4月には亡くなってしまいます。

その精神的衝撃は日記を読んでいても行き詰まるように伝わってきますが、辛うじて勝家の人々や彼女と仲の良かった日本人たちのお陰で、なんとか立ち直ります。

この時のたみ夫人がクララに伝えた言葉は月並みな言葉なのかも知れませんが、宗教云々関係なしに、クララに強い感銘を残します。

母アンナを埋葬する場所として、同胞の友人達は横浜の外人墓地を勧めたのですが『私たちは母の意志に従って、母の愛していた日本人の間に、母を置くことが一番良いと思った』ということで、アンナの友人でもあった大山巌夫人も大鳥圭介夫人も眠る青山に埋葬されることになります。

その結果、アンナ・ホイットニーは青山墓地に眠る最初の外国人としてもまた、後の歴史に記録されることになります。

さてここで今回のクエスチョン。

生前アンナは大山巌中将(後の陸軍元帥)から後妻である山川捨松との間の女の子(正確には先妻の子)に「英語を教えて欲しい」と頼まれていましたが、この娘さんは後に日本を代表する某有名作家の代表作の、悲運のモデルとなります。さて、この日本を代表する作家とは一体誰でしょう? 

【異文化交流クイズ】【4-8問題】クララと勝家の人々の交流

異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第8回は、クララと勝家の人々の交流からの出題。

まずはざっと勝家の家族構成から見ていきましょう。

奥さんは海舟メインの時代小説や時代劇では必ず大いにクローズアップされる、海舟の糟糠の妻、たみ。クララも日記中で幾度となく褒めていますが、実際ただの良妻というだけでなく、肝っ玉も据わっていたようです。たみ夫人からクララが直接聞いた話でも、幕末期、海舟不在時に屋敷に押し寄せてきた幕府の主戦派の武士とも真正面からやりあい「生きた心地がしませんでした」と云いつつも追い返したエピソードが日記にも綴られています。

それでいてクララと逸子が屋敷で遊んでいると「混ぜて混ぜて」という感じで娘たちと一緒に遊ぶ天真爛漫でお茶目なところもあったようで、なるほど、こういう人でなければ海舟の正妻は務まらなかったんだろうと思わされます。

そして海舟の子供達。

長女ゆめ、次女孝子はクララが勝家と交流を持つようになった段階で既に他家に嫁いでいたのですが、孝子は結構勝家に戻ってきており、クララの日記にもしばし登場します(ちなみにクララの日記を訳出したのは孝子の孫で、祖母の口から直接クララについては聞かされていたそうです)

長男の小鹿もクララ来日時には自費でアナポリス海軍兵学校に留学中で、明治10年に帰国して初めて対面することになります。

しかしその頃から既に身体が弱っていたらしく、クララの日記にも療養している様子が記されており、実際明治25年、海舟より先に逝去しています。

次男の四郎は維新前に僅か12歳で亡くなっていて、たみ夫人が産んだ男の子は揃って短命でした。

では逸子を含む他の子供達はと云えば、実はたみ夫人の子供ではないのです。

三女の逸子と四女の八重(早逝)は、海舟が京都の愛人である増田いとの子で、前回取り上げた三男梅太郎は、長崎時代の愛人梶くまの子。四男の七郎はまた別の愛人小西かねの子供。

で、この他にも海舟には更に愛人がいたようで、妾さんがいてもごく普通の時代とはいえ、流石は若かりし頃の海舟の写真を見ても美男子だったが故か、本当に多彩です(笑)。

海舟を極度に尊敬していたクララですが、流石にこればかり赦せなかったようですが、日記ではあまり深く突っ込んでいません。

さて、前回の回答編でクララが「梅太郎がたみ夫人の子供でないことを知って驚いた」ことについて書きましたが、よく考えてみると、梅太郎のみならず、この時に逸子や七郎の母親についても初めて知ったが故に、驚愕していたのでしょう。実際クララの日記を読んでいると、逸子とたみ夫人が本当に仲の良いことが伝わってきますので、クララとしてはそんなこと夢にも思わなかったのかと。

という前提知識を元に、勝家とクララの交流について。

逸子との交流については今更語るまでもありません。クララが彼女の家で逸子に英語を教えていたこともあって、殆ど毎日のように会っていた時期もあったようで、言葉の壁をあっさり越えた友情を育んでいたようです。

クララは勝家に聖書について講義していくこともあり、この時の彼女の教え子は逸子の他に、梅太郎や七郎でした。そして当初からクララは四歳年下の梅太郎を、弟のように、それこそ猫可愛がっていた様子が見て取れます。

『梅太郎と七郎は一緒に座っていたが梅太郎が聡明なのに七郎は明らかに愚鈍だ。七郎が読むと、梅太郎が端から注意し、可哀想な七郎の腕をつついて、言葉をはっきり発音して上げるのだった』

『一番幼い七郎はまったくの腕白小僧でありとあらゆる悪戯をした。今まで会った日本人の男の中には、こんなにもふざけた騒々しい子はいない。林檎のような丸い薔薇色の顔をした梅太郎は非常に愉快な少年で、悪戯にかけては七郎よりもひどかった。外ではあんなに礼儀正しく控えめなこ少年達が、家では丁度私たちのようにふざけているのを見て驚いた』

『お逸と二人で一つの椅子に座って(写真を)撮って貰ったが障子の隙間から梅太郎の黒い目が悪戯っぽく覗いているので、なかなか真面目な顔をしていられなかった』

『若い男の子は本当にしようがない。(海軍省の気球実験を見に来たまま)梅太郎は今夜泊まっていったが、悪戯ばかりしていた。《私の魔術師(チャーマー)》』

『(クララの家族と一緒に博覧会に行った夜)梅太郎は泊まっていったが、我が家に彼がいるととても楽しいということが分かった』

『(クララの18歳の誕生日を祝う)とても愉快なパーティーでアイスクリームとケーキをどっさり出した。でも梅太郎はアイスクリームと一緒にパンを食べるのだと頑張った。申し分のない楽しい誕生日だった』

『(新年の挨拶をすべく)間もなく梅太郎が、つるつるに磨いた顔に、五つの紋を染め抜いた灰色と黒の着物を何枚か着て、その上に茶色の袴をきりっとつけ、真新しい下駄を履き、手袋をはめて父上の家から出てきたが、すっかり一人前の紳士のようであった』

とまあ、こんな具合に可愛がっていた少年の旅立ち前夜に、先週の回答編で紹介した「出生の秘密」を聞かされたわけで「お姉さん」としては、さぞやツボに入ったことでしょう。

そして長崎から帰ってきた後、梅太郎が日曜学校に行きたいと云うので、築地の日曜学校に向かったクララ達ですが『最初に私、次に一番背が高くて、肩幅が広くて素敵な梅太郎』という具合で、この頃には完全にもう實のお姉さんのようだったのでしょう。

もっともこの二ヶ月後。クララ一家は日本を後にしてしまいますので、クララと梅太郎の間の時が再び動き出すのは、後3年待たなくてはいけません。

さてここで今回のクエスチョン。

上で梅太郎が新年の挨拶をするシーンがありますが、その数日前のお話。勝家では大掃除が行われたのですが、その終了と共に「大名屋敷の大掃除後の奇妙な習慣」が行われることになり、危うくその対象に梅太郎がされかかります。屋敷の女中さんたちが揃いも揃って一人の若者に向かって突撃し「ある事」をするのが、この「慣習」なのですが、この「慣習」とは一体何でしょう? ヒントとしては、日本人なら誰もが知っている慣習です。

【異文化交流クイズ】【4-7回答】クララが、日本人が神社で木や石などを拝んでいるのを見て、それくらいなら『とある動物』を拝んだ方がマシだと書いたその動物は?

異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」シリーズ第7回は、熱心なクリスチャンだったクララが、日本人が神社で「木や石や金や青銅の塊を拝」んでいるのを見て、それくらいならナイル川の『とある動物』を拝んだ方がマシだ、と書き記していますが、この『とある動物』とは一体なんでしょう? という問題でした。

今回の正解は・・・『ワニ』でした。

前回のヒントで「日本でも『ナイル川にいたその動物そのもの』ではないですが、ある意味で“それ”を祭っている所があったり」と云うのは鰐は鰐でも「鰐鮫」の事でした。一番有名なのは因幡の白兎に出てくる鰐の話ですね。

さて、こんな具合に来日当初のクララの筆はかなり過激に及びます。と云うか、まだ少女そのものの年齢ですから論理も滅茶苦茶。

明治当初、官公庁は当初『イチロク』と云って、日の下の桁が1と6の日が休みだったのですが、太政官公布で「日曜日を休日にする」と定められた日の日記の末尾の一文。

『本当に主が悪魔を滅ぼし、全世界を支配する道を着々と築いていらっしゃるように思われる。神に栄光あれ!』 

・・・何故日曜が休みになると悪魔が滅びるのか、我々には到底理解しかねる論理なのですが、クララ本人は至って大真面目。しかももう少しクララが長じた後ですが、同志社の創設者である新島襄とキリスト教談義を頻繁にしてますので、そう考えると少しばかり怖いところもあったり(苦笑)。

もっとも日本の生活が長くなってくると、内心はどうだか分かりませんが、日記では過激な文面も少なくなってきます。

確かに聖書からの引用などは何度も登場して、リスト教の教えに従うことに揺るぎはありませんが、それを日本人にストレートに押しつけようとしたりはしなくなります。

が、ただ一点、クララがどうしても破ることを許せなかった戒律があります。

しかも他ならぬ、日本人の中で一番尊敬していたと思われる勝海舟のことで。

来日から4年後の明治12年5月29日。クララは「翌月から数ヶ月長崎に行く」という海舟の三男梅太郎から、重大な身の上話を聞かされます。

有り体に言えば、クララがずっと弟のように可愛がってきた梅太郎が、たみ夫人の子供ではなく、海舟の長崎時代の愛人で、早逝した『梶くま』の子供だった、ということを聞かされたわけです。

ここは短い文面ですが、相当ショックを受けていることが伝わってきます。と同時に「そんな重大なことを伝えて貰えた信頼」にも感激していたり。もっとも自分たちが信頼を勝ち得たのは『神が私達にそのようなお立場をお与えになったためなのだ』というのは実にクララらしいかと。

さて、このシリーズも残り3回となりましたので、そろそろクライマックスに。

次回は勝家をメインに、とりわけ「勝(梶)梅太郎」の話題となっていきます。

【異文化交流クイズ】【4-7問題】クララの視点から見た日本人の宗教心の欠如

異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」シリーズ第7回は「母親の影響で熱心なクリスチャンだったクララから見た、日本人の宗教心の欠如」についてからの出題。

第5回で述べた通り、彼女の人格形成に一番影響を与えているのは、自身も日本での伝道を志す意味で、夫の来日を後押しした彼女の母アンナ。

と云うことで、クララの日記の端々に聖書からの引用がなされ、聖書の教えがクララの基本的な価値観となっています。

もっともそこはまだ来日当時はまだ十五歳だった少女のこと。厭なことがあると、神様に対して疑念をちゃっかり書き記していたりしますw。

その目は「神の教えを大半の人間が理解していない」残念な日本人のみならず、等しく外国人の、日本での不行跡にも及びます。

クララは来日一ヶ月にして、大人しい日本人を何かにつけて侮辱する外国人達を非難し、数多くの妾を囲う既婚の商人達を非難し、清貧であるべき筈の宣教師が、大部分は綺麗な家と馬車を持ち、使用人を幾人も雇うという「堕落」の罪を犯していることを見いだして次のように非難します。

『ああ、この人たちには何かが必要なのだ。役に立つもの、効き目のあるものは聖書しかない。私の魂は嫌悪の念をもって、これら外国人に背を向け、日本人の中に見いだされる純粋なものの方に惹かれていく』

もっとも、日本人の宗教心の無さは「とんでもないことだ」と当然のように考えていて、稲荷神社に出かけて諸々解説して貰ったのは良いのですが『栄光と栄誉に輝く御使よりも少し低くせられしものである人間が下級の動物を拝む、それも全ての動物の中でもっとも邪悪で有害でずる賢い動物を。私達の偉大な宗教はなんと高貴で優れたものだろう!』

もっとも狐を拝むことの「おかしさ」は、他の来日外国人の記録でも何度かみかけたことがありますので、余程「よりによって狐を拝む」というのが余程衝撃的だったのでしょう。ということは「蛇」を主神とする神社があるなんて知った日には、驚天動地どころではないかもしれません。

とりわけ初めて神社のお祭りに行ったときの日記の記述は激烈。

一人の参拝客がクララのすぐ側に立って、お辞儀をして何度も手を打ってお祈りを始めたというエピソード。要は現在でも極稀にお年寄りにはいますけれど「外国人を見ると拝んでしまう」という日本の文化的文脈に遡れば「客人神」という概念にも通じる風習ですが、当然の事ながらそんな事をクララが理解できる筈もなく、こんな風に書き記しています。

『その哀れな異教徒の着物が私の服に触れた。私は心の中で、真の神様に、こんな深い暗闇の中にいるこの人々になんとか光をもたらし給えと祈った』

さて、ここで今回のクエスチョン。クララはこの後更にヒートアップしていきこんなことを書きなぐっています。

『帰宅しても、あの人たちが生命のないものに頭を下げている光景が私の脳裏を去らなかった。(中略)。ああ、なんと悲しいことだろう、神の掟と自然の定めを破っている生命―――それも動物ほどの生命もないものを拝むなんて。木や石や金や青銅の塊を拝むくらいなら、ナイル川の―――』と、さてここでクエスチョン。

ここでクララは生命のないものを拝むくらいなら、ナイル川の『とある動物』を拝む方がマシ、だと云っていますが、さてこの動物とは一体なんでしょう? 

ヒントとしてはクララは当然知らないでしょうけれど、日本でも『ナイル川にいたその動物そのもの』ではないですが、ある意味で「それ」を祭っている所があったりします。

【異文化交流クイズ】【4-6回答】クララの友人、キム・ユウメイが後に清国人の女性として初めて就いた職業は?

異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第6回は、クララの親友であるキム・ユウメイは、後に清国人として初めて「ある職業」につきますが、その職業とは一体なんでしょう? という問題でした。

今回の正解は・・・『医師』、更に正確に云うと『女医』でした。

養父に連れられてアメリカに渡ったユウメイは米本国で本格的に教育を受けて、その地で医師となります。まだ女医自体珍しい時代に、しかも清国人として初めて医師になったのですから余程芯の強い女性だったのでしょう。彼女は後に中国に戻り、医者として、社会活動家として活躍したと記録されていますが、その後、どうなったのかが分からないのは残念。

さて、ここからが今回のメインイベントである「彼女」のご紹介。

小説や漫画には「男勝りな」「男前な」「格好良い中性的な」女の子は沢山出てきますが、現実は至って散文的で、なかなかそんなキャラクターを持った人物と巡り会う機会はありません。ところが小説家志望でもあったクララは、小説の登場人物並みに愉快な女性と、この日本で知己になります。

彼女の名前はゴードン・カミングス。クララ曰く「ゴーゴンと云った方が良いのだが」――つまり、ギリシャ神話の恐ろしいゴルゴン三姉妹にさえ喩えられた――トンデモないキャラクターだったりします。

初対面時、クララは彼女のことをどうにもいけ好かない人だと感じたらしく、骨董品の買い出しに付き合うように云われても『あの大きなフィジー諸島の住人とくっついて歩く、と思っただけでも内心辟易した』(注.彼女は身長が非常に高い)と無茶苦茶な事を云っているのですが、その翌日の日記になると態度がコロリと変わります。

興奮醒めやらぬまま書いたあろうその日の日記は『今日はゴードン・カミングスとの「あいびき」の日だった』という書き出しから始まります。

……って、クララ、前日と態度が違いすぎw。

彼女が逗留している家に人力車で迎えに行ったクララは「あら、忠実なお人だこと」と迎えられた上、カミングス嬢が弁当と一緒にワインを持って行こうとするのを見てこう言います。

「どこでもお茶を出してくれるから、飲み物は持って行かなくてもいいですよ」

「あら、私はちょっとお酒が入ってないと身体が動かないの」

「じゃあコップを持って行かないと」

「コップ? あんた、私は瓶から飲むのよ!」

とあっけらかんと告げます。しかもクララ曰く「こういう会話をしている時の彼女の抑揚は文字では再現できないので、彼女の云った通りに伝えられない」と。

このエピソードだけを聞くと(こういう表現はアレですが)ただの「阿婆擦れっぽい」ように思われそうですが、彼女は紛れもない「侯爵家の一族」なのです。

しかも「女性の貞淑さ」を何より求めるヴィクトリア朝時代真っ直中の、英国の(領地は明記されてませんが、クララとの別れ際に「スコットランドに遊びに来なさい」と告げているので、スコットランド貴族の模様)。さぞや本国にいるのが窮屈で鬱陶しくて、極東まで遊びにきたのだと想像できます。

こんな彼女のお供をして、クララは丸一日骨董屋巡りをするわけですが、良さげな物がありそうな店の前を人力車で通りかかるとカミングス嬢は大声でストップをかけ、帽子を目深に被り、背が高いので前のめりに身体を曲げ、骨董品を探すのに目を細めてのっしのっし歩き、気に入った物を見つけると「おかみさん、これいくら?」と大きな声で訊ね、面白げな彼女の姿を見るべく集まってきた群衆には「皆さん、道を開けて下さるか」と。

で、店の主人とも大いにうち解け、大いに買い物をして、クララを思い切り小間使いに使って、ようやく逗留先に帰ってくると、彼女はクララの背中をぽんと叩いて「上出来だったわ、あんた。また会いましょう」って。

豪快です、惚れそうですw。クララも実際彼女のことを書いた日記の部分は詳細で、余程一緒にいて楽しい人だったのでしょう。

それはカミングス嬢の方も同様だったようで、その三日後には「良い天気だから写生に行こう」って誘いにやってきます。

しかし、よりによって彼女が出かけた先は九段の方角。つまり皇居あたりの、しかもお堀の上の、立ち入り禁止部分で写生を始めてしまいます。

で、御者は何故か必死に、クララにまで頼み込んで「彼女をなんとかしてくれ」と懇願されることになります。

……何故かと云えば、この数ヶ月前に近場で大久保利通が暗殺され、この直近には宮中近衛兵の反乱である竹橋事件が勃発し、警戒態勢がマックス状態だったからです。

流石にこれは洒落になっていないため、場所替えして上野に来たのは良いのですが、それでも周囲には人だかりが。

クララは健気にも群衆の中の、とりわけ聞き分けのない子供達の相手をすることになります「子供達が絵描きさんの近くに行かないように」w。

すっかりカミングス嬢の従者となった感のあるクララは、この後もこき使われますw。

このカミングス嬢、ご覧のように破天荒で、ついでに短気で口が悪かったりもしますが、気に喰わない事があって「忌々しい!」と怒鳴ったかと思えば一転、クララの方を向いて優しく「いい子ちゃん、アンタは悪い言葉は使っちゃ駄目だよ」と切り返すことができるところは素敵です。

日記上での二人の最後の対面は、第5回の福沢諭吉に関するエピソードでも取り上げた、グラント将軍も迎えての、森有礼の新邸宅のお披露目会。

前述の通り、この回は錚々たるメンバーの集まりでしたが、その場に独身者で出席した女性はまだ子供のクララとカミングス嬢だけだった、というところからも、侯爵家の一族としてそれなりの人物として遇されていたことが分かります。

この場で別れることとなった二人ですが、別れ際カミングス嬢はクララの手を堅く握って「またお目にかかりましょう、多分スコットランドで」と告げます。

風のように登場して風のように去っていった彼女ですが、果たしてこれ以降、倫敦にも一時滞在していたクララと再会する機会はあったのでしょうか? 日記にはその点に関して描かれていないのは残念です。

いつかクララや逸子をメインに据えた時代小説を書こうと物語構成を練っていたりしますが当然その作中ではこのゴードン嬢には大活躍して貰う予定だったり。というか序盤は書けていますので、このシリーズが終わったらアップしてみますので、その際はよろしく。

【異文化交流クイズ】【4-6問題】日本におけるクララの女友達関係

異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」シリーズ第6回はクララの友人関係の中でとりわけ特徴的な人たちをご紹介。

クララの日記に登場する彼女の女友達で、特徴的な人たちを挙げると以下のような人たちになります。

・勝逸子(勝海舟三女) 

・アニー・ワシントン(アメリカ人。ワシントン大統領直系の孫)

・キム・ユウメイ(元清国人。アメリカ人宣教師夫妻の養女)

・コードン・カミングス(英国人。侯爵令嬢)

逸子については既に何度も書いてきましたので省略。

まずは前回もチラリと登場した、初代大統領の直系の孫であるアニー・ワシントン。クララと初対面した明治9年の時点で21歳。その若さで女子師範学校(東京女学校)で教鞭を執り、綺麗で知的でだけど「見た目もなさることも17歳くらい」と破壊力wも抜群。クララの日記には常に憧れ的な存在として出てきます。

クララの父親はアメリカで商学校の校長はしていたとは云え、学校があったのは片田舎のニュージャージ。そこで木訥に暮らしていたクララからすれば、ワシントンの直系の孫で、なおかつ美人で頭も良いアニー・ワシントンは憧れて当然とも云える存在だったのでしょう。

北京出身の少女キム・ユウメイもまたクララとは親友になっていきます。彼女は元々清国人の牧師の娘だったのですが、孤児となったところをアメリカ人宣教師マッカーティの養女となり、養父が開成学校の英語教師として明治政府に雇用されたことで、一緒に日本にやって来ます。

クララとは明治9年11月23日の初対面の時からうち解けたらしく、しかも日本に来る前に2年アメリカに滞在していただけあってクララ曰く「英語を私と同じくらい上手に話す」……って、クララさーん、アナタの母国語は何処の言葉?w しかもこの時点で彼女はまだたったの13歳でしたが、クララより遙かに大人で……

『ユウメイはとても独立心が強く、将来先生になるつもりだと言う。私はちょっと吃驚して、うっかり「え、あなたが!」と言ってしまった。ユウメイは「あら、どうして先生になっちゃいけないの。他の人だってなるでしょう」と少し怒ったように言ったので、私ははっとして言い直しをした』。

……クララ、三歳下の女の子に圧倒されてますw。

クララの日記を読む限り、彼女は大変自負心が強すぎる子だったようですが、後に立派に大成し、アメリカで教育を受けた(元)清国人の女性としては初めて「ある職業」につくことになります。

さてここで今回のクエスチョン。このキム・ユウメイ、長じた後、どんな職業に就いたのでしょう?

【異文化交流クイズ】【4-5回答】クララは福沢諭吉をして『彼には哲学的閃きがあって、下手な○○○○よりも役立つ』と評していますが、この『○○○○』に入る言葉は?

異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第5回は、クララはステキ英語力持ちwの福沢諭吉をして『彼には哲学的閃きがあって、下手な○○○○よりも役立つ』と評していますが、この『○○○○』に入る言葉は一体なんでしょう? という問題でした。

今回の正解は・・・『百科事典』、二文字ならば『事典』『辞書』でした。

「百科全書家」と云うのが当時のヨーロッパの知識人に対する褒め言葉として存在しましたので、クララの論評は最高級の評価と云っても良いでしょう。日本的に云えば「博覧強記」と云う意味とほぼイコールかな?

このシーンは短いのですが印象的ですので、書き出してみましょう。

『私は彼とゆっくり話をしたくなる。私が男の子だったら彼を教師として誇らしく思ったであろうがそれは不可能だ。彼には哲学的な閃きがあって、下手な百科事典よりも役に立つ。福沢氏は私のアルバムに「我々は文明の中に光を見いだすことは出来ない」「文明圏の中に文明を見出すことができない」と書かれた。随分と過激な台詞であるが、宗教心とは本来そう云うものなのだろう』

更にもう一つ印象的なエピソードとしては、南北戦争の英雄グラント将軍は、大統領退任後の明治12年、世界一周の過程で日本に数ヶ月滞在しますが、そのグラントも迎えての、森有礼の新邸宅のお披露目会での出来事。

出席者はグラント以外にも有栖川宮、西郷従道、大山巌、井上馨、田中不二麿、中村正直などなどが参加した豪勢なのものでしたが、その時の福沢の様子。

『ごわごわした袴で威儀を正した背の高い男らしい福沢氏は、周りの背の低い人々の上に聳えていた。この日出席した紳士型で和服は福沢氏だけだった。しかし立派な着物を召された姿は、体に合わない洋服を着て身のこなしのまずい他の紳士たちよりもずっと堂々とした威厳があった。福沢氏は思想上完全な革命を遂げられた』

自分たち欧米人とは微妙に価値観が違うことを認識しながらもクララが福沢を如何に高く評価していたかが分かる表現です。もっともこの直後にこんな一文があるから「……本当に尊敬してるのか?」と思ってしまう訳ですが。『彼は熊だけれども、やさしい熊である』w。

さて、今回は比較的真面目な話でしたので、次回は日本におけるクララの友達関係を御紹介。

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