[雑記]
現在NHKの朝ドラとして放送されている「らんまん」。植物学者として有名な牧野富太郎をモデルにしたドラマですが現在東京編に突入。
主人公の「槙野万太郎」は東京帝大の植物学教室に入るのですが、そこで出会うことになるのが東京帝大初代植物学教授の「田邊彰久(演じるのは要潤さん)」。
この人物のモデルもまた明白で、モデルとなった人物は「矢田部良吉」という名の東京帝大初代の植物学教授なのですが・・・実は自分はこの人物についてかなり詳しく知っていまして。
「矢田部良吉」の実際の「為人」については、当時十代後半だったアメリカ人の少女クララ・ホイットニーの日記で繰り返し描かれており・・・と、どう説明したものかと思いましたが、以下実際うちのブログで詳細に取り上げた際の記事から切り張りで解説。
最低限の前知識として知っておいて貰うと、日記の主クララ・ホイットニーは後に勝海舟の三男と結婚して六人の「勝海舟にとっての孫」を産んでいる人物です。
最終的には離縁してアメリカに戻るのですが第二次大戦後、彼女の娘(=勝海舟の孫)がクララの日記を携えて来日。その日記は翻訳され出版されることになります(現在絶版ですが、発売当時結構売れたので中古で比較的安く見つかります)。
そのクララの日記で矢田部氏は繰り返し繰り返し登場するのですね。クララは少しぼかして書いてますが・・・要するに専ら「クララを口説きにw」。
当ブログで長年連載していたクララの日記を口語風でまとめ直した上で歴史的解説を付けたシリーズ「ラノベ風に明治文明開化事情を読もう」より、矢田部氏登場のシーンからご紹介となります。なお矢田部氏登場シーンのみ抜粋していますので解説の部分とかみ合っていない部分がある点はご容赦。
【新編クララの明治日記超訳版Re:リニューアル版】第20話「クララ、珍客(後の牧野富太郎の敵)を迎えるのこと」
本日分は、ホイットニー家に現れた新しい珍客紹介がメインの話となります。
明治9年9月24日 日曜日
昨日から荒れ狂っていた台風はようやく通過していった。築地付近は随分ひどいことになっているらしく、ビンガム夫人の家は客間・寝室・温室まで浸水してしまったそうだ。
昼食の直後、矢田部良吉氏というニューヨーク州のイサカで六、七年勉強して、帰国したばかりの青年がみえた。当然のこととして、快活で垢抜けていて、外国風に洗練された物腰を誇りとしているようだった。だけど彼と話しているうちに、私の心に疑惑の暗雲が立ちこめ始めた。この物言い、そして態度はまさか……
「ええ、わたしは特に神を信じておりませんが、何か?」
やっぱり! 私の問いに矢田部氏はあっさり頷かれた。アメリカに長年留学していたというのに、彼は無神論者でもあったのだ! 洗練された屈託の無さと、紳士然として人を見下すような態度を身につけ、当たり障りのない物柔らかな口調で話すだけに、かえって無作法な人たちよりも始末に悪い無神論者の一人がここにいた。
普段なら母に説法して貰うか、遠回しに追い出して貰うかするのだけれど、あいにく母は頭痛がするというので休んでいる。それに彼が無神論者であったとしても、その英語に混じる訛りは明らかにアメリカのそれだ。私は田舎訛りを聞くのが嬉しくて、お相手をつとめ続けることにした。庭を歩き回り、庭師の小屋に坐って、長い間庭師に話しかけたり、二人でお喋りをしたり、犬や猫を可愛がったりした。
夕食時には室内に戻って夕方は音楽を聴いたり「ハーパーズ・ウィークリー」の絵を見たりして過ごした。それで分かったのは、矢田部氏は芸術の分かる方だということだった。
「クララさんの髪の色も、梳き上げて上で纏めた髪型も私は好きですよ」
普段ならそんな言葉を聞いた瞬間「さよなら」と告げてその場から立ち去ってしまうだろう彼の好き勝手な物言いを、私は何故だか自然に受け止めていた。
「クララ、今日は一体何曜日だと思っているの?」
矢田部氏が帰った後、母にそう指摘されて私は今日が日曜日、つまり安息日であることを思い出した。昨日以来の台風で、完全に曜日感覚が欠落してしまったようだ。
ああ、私の良心を麻痺させたのはきっと無神論者という名の悪魔だったのだろう。髪を褒められた時のことだってそうだ。今になって思い返してみると、自分自身と自分の行いがとても恥ずかしい。そして母の云うこと、つまり、私自身か安息日を破っただけではなく、そうすることによって無神論者――イエス様の貴い御名を嘲笑する者――を鼓舞し、おまけにアディや富田夫人に悪い手本を見せたと云うことは真実だ。ひどい罰が当たるかもしれない。
だけど、私としては故意にしたのではなくて、うっかりしてしまったのだ。そう、一回だけならうっかりかも知れないし、なあに、かえって免疫力が付く。不注意という罪はいつも私に付きまとい、尊敬されるような点は私の性格にはない。母は私に対し、腹が立つというより失望したことだろう。
明治9年10月1日 日曜日
今朝目をあけて、美しい明るい日光が射し込んでいるのが見えた時、殆どこの目が信じられないくらいだった。それほど素晴らしい秋の朝だったのだ。空気が綺麗で新鮮で、熱いマルセーユ織りの掛け布団がいるほど涼しい。母は芝聖公会へヘバートン主教の説教を聞きに行き、私はアディとユニオン・チャペルへ行った。
食後に訪れたのは他ならぬ矢田部氏で、皇后様の女学校の学生である二十歳の従姉妹のお嬢さんと一緒だった。
「先週の日曜のような罠には嵌るまい」
そう決心して、二人を教会へ行くように誘った。矢田部氏と私、富田夫人と矢田部氏の従姉妹、というように組んで出かけたけれど、運悪く時間を間違えて遅過ぎてしまった。やむを得ず、ハイパー家の祈祷会に行ったら、丁度終わるところだった。無視論者とは、ここまで神と無縁になれるものなのだろうか? 祈祷会では数人の友達に会ったのだけれど、矢田部氏は自分の英語を見せびらかしたいらしく、私が話す人全部に話しかけていた。
「六年もアメリカにいらした割にお若くみえますね」
「私が日本を発ったのは二十歳の時でしたから」
矢田部氏は開成学校五番に住むことになっている。富田夫人は今朝来て、一日中いらっしゃった。ご主人の富田氏は、十月二十五日の次の汽船まで帰国なさらないことになったが、私たちはもっと早くお帰りになると思っていた。
【新編クララの明治日記超訳版Re:リニューアル版第20回解説】
「やっと本格的に私たちの出番よねー・・・ま、ユウメイは後一ヶ月半くらい台詞はないけどw」
「はいはい、わたくしの存在なんて無視して、二人で勝手にイチャイチャしてなさい。さっさと本題に参りますわよ。序盤にかなりの頻度で登場してきた小野氏ですけれど、この結婚報告を期に、急速に出番が減っていきますわね。変わって出番が増えるのが」
「今回初登場の矢田部良吉氏だねー。新しいトラブルメーカーとも云うけどw」
「今日では専門家くらいしかその存在を知らないでしょうから、ざっと矢田部良吉氏の経歴をフォローしておきます。
嘉永4年、1851年に伊豆韮山で生まれ。父親も蘭学者で、本人は幕末頃、ジョン万次郎氏や大鳥圭介氏に英語を学んだみたい。で。維新後は外務省に入って森有礼氏に随行して渡米、と。多分大鳥氏か森氏の紹介よねー、ホイットニー家にやって来たのは」
「それでも、何の目的でやってきたのかは正直理解しかねますわね。クララの日記を読む限り、かなり軽薄そうな人物のように感じるのですけれど?」
「うーん、この人、変わっていると云えば変わっていて、そのまま森氏に随行していれば政府のそれなりの高官になれた筈なのに、外務省を辞めてそのままアメリカに留学しちゃう。しかも学ぶことを選んだのは、何故か植物学」
「クララの家にやってきたのは4年にわたる留学を終えた後ですわね。そしてこの一年後、矢田部氏は東京大学における初代植物学教授となるわけですのね」
「後任の東大植物学教授が残した矢田部氏評はこんな感じだったみたい。
『温和にして淡白、人と交わるに城府を設けず真に泰西理学者たるの風采を具えたり、而して性又磊落奇偉』
『識汎く理学の一般に及ぶ、故を以て平素の談論往々哲理に渉り時に音楽又は油絵等の品隲し來り、人をして意外の感に打たしめたるもの甚少ならざりき』
クララの記述を裏付けするような、よく云えば豪放磊落、悪く云えば芸術好きのエキセントリック人間? ぶっちゃけ、評判は良くないよね、後世においても」
「評判も何も、矢田部がすこぶる野放図で、東大の植物園の事務担当になっても実際は任せきりで採集した植物の整理もせずに放置しっぱなしにするどころか、本人がアメリカで採集してきた植物も放置したままだった、っていうのは学者としてどうですの?」
「あっ!?」
「? 突然大声を出してどうしましたの?」
「思い出した。植物学者として超有名な牧野富太郎と喧嘩した人だ、この人」
「? なんのことですの?」
「牧野富太郎っていう学歴も何もないアマチュアで在野の植物研究者がいて、ある日、自分の研究成果を持っていったんだよ、東京帝大の教授に。で、その教授はすぐに牧野富太郎の才能を見抜いて、自由に研究室に出入りすることを許し、機材や資料なんかも自由に使わせてくれたんだって。牧野富太郎の伝記には必ず書かれるエピソードだ。ああ、その教授が矢田部氏だったんだ」
「それだったら普通に美談じゃありませんの」
「だけど5年後には追放しちゃうんだな。で、これが遂には新聞沙汰にまでなって大揉めに。しかも悪=帝大教授の矢田部氏&後任教授、善=牧野富太郎の図式で」
「今までの話の流れを見ていると、矢田部氏が一方的に悪そうな気がするのですけど?」
「……うん、子供の頃、牧野富太郎の伝記を読んだ時にはそう思ったそうだよ、この超訳主も。だけど、この牧野富太郎って人、研究者としては一流だけど、物凄く自己中なわけ。研究のためには何をやってもいい、資料の勝手な持ち出しの何が悪い、家族を犠牲にして何が悪い、死んだら研究が出来ないから絶対に死にたくない」
「前二者はともかく、最後のは普通の学者なら多かれ少なかれそう思うんじゃありませんの?」
「……実践さえしてなきゃね。植物採取中に崖から転落して気を失ったけど、気付いた後そのまま再開。だけど半年後にレントゲン取ったら実は背骨がぽっきり折れてたけど自己回復していたとか、実際に晩年死の床について医者からご臨終宣言されたのに、死に水を取っていたら生き返った、とか化け物じみた逸話がいくつも残っているくらいの不死身人間」
「……本物の化け物でしょうが、それじゃあ」
「今回分のクララの日記を読み直していて、この二人、絶対に分かり合える存在じゃないってよく分かった。学者としての才能はともかく、アメリカナイズされて人当たりも良く、繊細な矢田部氏が、典型的な日本の研究馬鹿と馬が合うわけなかったんだ。お気の毒に」
「後年矢田部氏は、後に文部大臣となる外山正一たちと『新体詩抄』という西洋の詩の訳本を出版しています。これが日本での訳詩集の先駆けとなるようですわね。確かに、学者と云うよりは見た目の態度はともかく、その芯は繊細な芸術家気質だったのでしょうね」
「……ま、そんな後年の話はさておき、しばらく矢田部氏はクララの家に出入りして、諸々揉め事を起こしますが、それは次回以降と云うことでー」
【新編クララの明治日記超訳版Re:リニューアル版】第26話「クララ、矢田部氏に追い回されるのこと(写真あり)」
今回は写真を新規に追加ということで、元のブログ掲載時からサブタイトルを変えてのご紹介。
明治10年1月23日 火曜日
このところアメリカでいうインディアンサマーのような素晴らしくいい天気が続いている。けれど、私はここ二、三日、身体の調子があまりよくなかった。おやおさんとおすみも午前の授業を休んだので、病気が流行ってるのかも知れない。新型の病気なのかしら? 完全に病気というわけではないのだけれど、毎晩「ハライタイ」を起こし、昨日も夕食の 直前にとてもひどい痙攣に見舞われた。 だけどそのお陰で<?>というべきかもしれないが、私は夕方中具合が悪くて下に下りて行かなかったので矢田部氏に会えなかった。ちなみに今夜の矢田部氏は、七時に来て十時!に帰っていった。
でも今晩は綺麗な花の絵が全体についた美しい日本風の茶器を一揃い、つまり茶碗五つと変わった急須を持ってきて下さったので、会えなかったのを残念がらねば人の道を踏み外すことになってしまうだろう。矢田部氏は懐中ナイフも忘れていったのだけれど、これが意図的なものかどうかは分からない。それにしても、一週間に四度も来るなんて本当におかしなことだ!
今日私たちは、三田から麻布に引っ越した富田家を訪問して帰ってきた。富田夫人は悪寒がしてひどく具合が悪かった。
「残念ですよ、折角上海に赴任することができる予定だったのにね」
ご主人は清国行きが取り止めになったのでがっかりしていらっしゃった。もっと残念がられているのは、あの美しい洋服が日本の家では役に立たないのを嘆いている奥様だろう。
明治10年1月24日 水曜日
今日はとても素晴らしい日だった。二時に母とお逸と私は家を出て、ヤマト屋へ本と毛糸を買いに行った。買い物を済ますと私は駿河台へ、お逸は家に帰り、母は幾つか訪問するところがあって築地へ行った。
まずエマの家に立ち寄ったら、エマは<洋服を着た>小さな日本人の少女に教えていた。けれど口実を設けて授業をやめ、外出の用意をして私と一緒にヴィーダー家のジェニーとガシーに会いに行くことにした。
「あら、クララさんではありませんか?」
玄関のところでばったりと出会ったのはマッカーティー夫人とユウメイ。流石にこのまま出かけるのはどうかと思ったのだけれど「どうぞ、構わずに」と夫人が仰ったので、私たちはそのまま出かけることにした。
開成学校はすぐ見つかり、同じ敷地内にあるヴィーダー家には運良く二人ともいた。少しお喋りをしてから、クローケーをしに外に出たのだけれど、皆ひっきりなしに喋っていたので、残念ながら、一時間以上やったのにゲームは終わらなかった。一人の番が済むと、みんなのお喋りが始まり、次は誰だか忘れてしまったからだ。
やがてヴィーダー夫人の所へフェントン夫人が訪ねて来られ、私たちは「母親と父親」遊びを始めた。ジェニーが母親、私が父親になって、エマとガシーが悪い子供たちの役所。私たちは子供たちを大追跡して、開成学校の敷地やずっと昔軍隊が駐屯していた古い兵舎の間を駆け回った。ジェニーと私は、形の上の子供たちを追いかけるのに疲れて、途中でやめてしまった。二人とも互いに相手の、アメリカでの学校生活や親友のことに興味を持った。ジェニーが「キャリー・ディアポーン」や「パーティ・ブライトン」のことをあんまり話すので、どちらも会ったことがないのに、よく知っている人たちのような気がしてきた。ジェニーは、六月になったら丈の長いドレスを着ることになっているけれど、同じ頃、アメリカの二人の友達も着るのだと云った。
熱心に話していたら、矢田部氏がこちらへぶらぶらと歩いてくるのが見えた。
「あの人に会いたくないから、この小屋に逃げ込みましょうよ!」
私はジェニーに云って、急いで走り出した。当世風の服装をして、ボンネットを被り、長い金髪のお下げを後ろに靡かせて、古い虫喰いだらけの兵舎の間を私と一緒に駆けているジェニーはとても綺麗だった。危険がすっかり去ると、私たちは這いだして、学校の方へ歩いて行った。
「入りましょうよ」
「ええ、いいわ」
ジェニーの提案に私は同意。その方向へ足を向け、角を曲がった途端だった。一体どんな嗅覚を備えているのか、一番出会いたくなかった人と鉢合わせしてしまった!
「おや、お嬢さん方、学校を見に行くのですか?」
喜色満面の矢田部氏の問いに、私は思い切り内心を露わに「……ええ」とだけ答える。普通の人なら、私の声の調子だけで「拒絶」を示していると分かる筈だ。分かる筈なのだけれど。
「良かったら私がご案内しましょう。なにせ私はここの教授ですから」
「……………」
「……………」
ジェニーと私はしばらく相談したが、結局行くことにした。断っても着いてきそうだったからだ。矢田部氏は、教室や、鉱物学と動物学の収集室、図書室、実験室を案内し、終わりに、アジア協会が会合を開いている部屋の窓の前を歩いた。室内の紳士たちが吃驚して見上げたので、ジェニーはかんかんに怒った。図書室に行った時もまた、大変当惑した。建物の中に学生がいるのを知らずに、かなり大声で笑ったり喋ったりしていたら、突然矢田部氏が。
「!」
一体全体、何を考えているのか、矢田部氏は図書館の戸をバッ!と開けたのだ。見るとそこには二十人くらいの若い男の人たちが! 私たちはたじろいだけれど、彼らの丁寧なお辞儀に返礼をしないわけにはいかなかった。私と手を繋いでいたジェニーは、なんとかこの苦行から逃れようと試みる。
「矢田部さん、会合に出ないといけないんじゃないんですか?」
そう云いながら、彼女は私の手をぎゅっと握った。だけど、この程度の当てこすりなんて、矢田部氏に通用する筈もない。そのまま学校の外までずっとついて来て、ようやく解放されると思いきや、まだ未練がましそうにこう続けたのだ。
「お嬢さん方が迷子になるといけないですから、ここでお別れするのは本当に残念です」
丁度その時、救いの主であるガシーとエマが現れた。この機を逃さじとばかりに、私たちは大変無作法な態度でその場を逃げ出し、待たせておいた人力車に飛び乗った。エマとガシーも後から追いつき、みんなで家に入ってみたら、アメリカから郵便が来たところだった。ジェニーは、三百万通も期待していたのに、たった一通しか来なかったと云った。私には三、四通と、いいものが沢山入った大きな包みが来ていた。
そう、この日、重大なことを決めた。私たち少女は「若い婦人のアジア協会」を創立することにしたのだ。今度の水曜日に、ううちで結成会を開くつもりだ。スージー以外の少女たちはみんなとても喜んでいるが、スージーだけは何処までも冷静にポツリと云った。
「……もし万一そんな会ができたら素敵でしょうね」
明治10年2月5日 月曜日
昨夜は激しい吹雪が吹き荒れた。今朝はまるで自然が頭にベールを掛けたように、辺り一面冷たい白いマントに覆われた。その上を太陽が照らしている。うちの向かい側の公園の庭は御伽の国さながらだ。だけど、日本人は道の雪をシャベルで掬い除ける技術を知らない。その結果、空が明るくなって天気が良くなると、道は通りにくくなり、一台の人力車に二人も車夫が必要となる。そのせいで、今日はお逸と有祐が来ただけだった。
「そうね“小春”という名前はどうかしら?」
お逸が私の人形に名前をつけてくれた。お逸のは“小藤”、アディのは“小松”という名前だけれど、これらは皆日本の若い女の人、特に芸者に多い名だ。夕方、矢田部氏が来たが、二、三分しか会わなかった。
「具合が悪く頭も痛いので、失礼します、おやすみなさい」
それだけ云って引っ込んだからだ。母はとっくに休んでいたから、その場にはウィリイと父が残った。やがてヤマト屋の人が注文の件でウィリイを訪ねてきたので、矢田部氏の相手は父だけとなった。
「………………………………………………………」
「………………………………………………………」
「………………………………………………………」
「………………………………………………………」
延々と続く沈黙。あの矢田部氏も遂に耐えられなくなって、八時半に!帰って行った。矢田部氏が怒ったかどうか知らない。けれど、どうしようもないものはどうしようもないのだ。
【新編クララの明治日記超訳版Re:リニューアル版第26回解説】
「大ニュース、大ニュース!」
「どういたしましたの、お逸? いつも以上に落ち着きがありませんわね」
「以前少しだけ高かったけど本を買ったのよ、幕末明治の有名人物の写真を揃えた本を。『幕末明治の肖像写真』って本なんだけど」
「ああ、森有礼氏のコレクションが結構なネタ元になっているとか云うのですわね?」
「そう! 森氏ってその筋では有名な“名刺マニア”でね。で、当時の慣習としてはその名刺と一緒に、名刺大の写真をセットで保存していて、死後残された写真と名刺は300枚以上と屈指のコレクションなわけよ! それを集めた本なわけ、これが」
「で、それの何処が大ニュースですの?」
「いやー、買ったのはいいけど、その日のうちにペラペラと捲って、特に有名な人たちの写真とかだけ確認して、本棚に入れておいたわけ」
「ありがちな話ですわね。本マニアは目的と手段が逆転して、買ってきた本は当日読まないと一生読まないとか云うヤツですわね?」
「……耳が痛いご指摘で orz。とりあえずその話は置いておいて、買って以来、久々に本を開いたわけよ」
「なるほど、そこにいたわけですわね、このシリーズに登場する方が」
「いたのよ! これが!!」
「で、どなたがいらっしゃいましたの? 勝提督……では驚きませんわよね、貴女?」
「うん、見つけた頁は明治の文化を担った人物群だからね。ちなみに父様は明治政府の中枢人物群にあったけれど」
「文化人というと津田氏かしら? それとも杉田氏? 大穴でたまにクララの家に来る箕作氏かしら? 日本の法曹界の草分けの一人ですし」
「惜しい! というか、その“件の人物”の隣の頁が箕作氏の写真。これがそれなりの美男子で、なんで何度も会ってるクララは日記で褒めてないんだろう? って不思議な感じ」
「? すると、どなたですの? 明治の文化を担った方でしょう? 新島襄氏は、まだクララの日記には登場してきていないですし……」
「いるじゃない! 若くしてアメリカ留学をし、開設当初の東京帝国大学において唯一人、日本人教授となった人が!」
「……帰らせて頂いて宜しいかしら?」
「ええー、ひどい! 植物学と西洋近代詩を日本に最初に紹介した功労者だよ!」
「クララの日記の何処を読み取れば、そんな偉人に見えますの、矢田部氏が!?」
「正解! 本編中では、空気を読めぬままクララに猛アタック中の矢田部良吉氏です! その写真がコチラ!」
「……なんと云いますか、それなりに秀才っぽい整った顔ですわね。というか、ぶっちゃけ“苦労をまったく知らない良いところのボンボン”にしか見えませんわ」
「笑えるでしょー。絵描きさんに“いいところの世間知らずのボンボン”ってお題を出しただけで、この顔が出てきそうだよねー。この顔で、クララに猛アタックかけている姿を想像すると、もう笑えて笑えて」
「笑うのは致し方ないけれど、お逸、一応この顔の方が貴女の国の植物学の祖ということを忘れないでおきなさい」
「そっかー、そだよね、ちょっと反省。ついでにフォローしておくと、それなりに美男子だと思うよー、苦労の跡がこの顔には一切張り付いてないしねー。
とりあえずこの本、大型書店の歴史コーナーに行くと置いてあったり・・・と当時は書いたのですが、いまググると絶版なんだね。とは云え電子版は普通にあるし、書籍の中古価格も定価以下なのでこの時代に興味のある方は是非」
(自己引用終わり)
・・・と矢田部氏の出番の一部を抜粋してみましたが「こんな人物w」です。
朝ドラをご覧の方は「こういう実像の人物だ」ということを念頭にいてドラマを見ていただくと「味わい深い」と思いますよ、はいw