Fate雑記(士凛特化)+あるふぁ

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クイズ

【今回分は是非一読を】【異文化交流クイズ】【3-8問題】無口無表情キャラ萌えの原典並びに美少女ラブコメの本当の源流

異文化交流クイズ、サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第8回。今回はシリーズ趣旨とズレますが、今日の日本オタクの「無口無表情キャラ好き」の源流を、グァテマラ人視点から探ります。かつての「綾波好き」「長門好き」などの方並びに日本人の萌えの原点を知りたい方は、今回だけでも是非ともお読み下さい。

グァテマラ出身の批評家兼作家にして、現代スペイン語散文の生みの親の一人と云われるエンリケ・ゴメス・カリージョが日本にやってきたのは日露戦争直後近辺。

このカリージョ、15歳で駐在外交官夫人とスキャンダルを起こしに始まり、絶え間ない女性遍歴、決闘騒ぎ、好奇心の赴くまま外国旅行と、かなり奔放な性格をしており、日本にやってきて当然の如く、吉原を訪れます。

常連となった妓楼で彼は十返舎一九執筆による『吉原暦』と云う名の吉原の解説本の普及版を見つけます。この本はフランスにおけるジャポニズム普及に貢献した作家エドモンド・ルイ・ゴンクールによって翻訳&注釈が付けられ、ヨーロッパでも広く普及していたのですが、これを本場の吉原で読むことで、カリージョは十返舎一九の慧眼に改めて驚きます。

『花魁の間で男を最も喜ばせる官能的な女は、猫のようにしなを作って笑う女ではなく、憂鬱そうに黙りこくって死ぬことを考えていそうな女だ』

要するに、所謂「綾波系」「長門系」と評される無口無表情キャラへの萌えは、既に江戸期には確立していたわけです。

もっともカリージョは一九を「鋭い目を持った心理学者である」と褒めていますが、つまるところ「この系統のキャラへの萌えは日本人に限らない」ということの証明でもありますね(笑)。

更に本筋から逸れますがもう一本。「とある物語」の粗筋をざっと紹介致しましょう。

『主人公は金もなく、力もなく、喧嘩をすれば必ず負ける19歳の少年。とある名店の養子になったのですが従業員に店を乗っ取られて、ボロ長屋に追放。

元従業員だった18歳の女の子はそんな主人公を見かねて、生活費を稼ぐために芸能界に。主人公に対して超ツンデレなこの彼女ですが、芸能界であっという間にのし上がっていきます。一方、主人公が養子に入っていた店の一人娘の15歳の少女は、元々許嫁だった主人公にベタ惚れ。

ここにめでたく(笑)三角関係が成立。この美少女二人は顔を合わすたびに嫉妬と当てこすりと涙の応酬。主人公はこの二人の間に挟まれ、いつもオロオロ。

そのくせこの主人公、顔だけは良いので、常にもてもて。ツンデレな彼女と同じ芸能人の女の子にも惚れられてしまい、それがバレて大騒動に発展したりと、大騒ぎな毎日が繰り広げられるのでした。。。』

さて「……それってどこの一昔前のラブコメ?」という展開のこの物語。

ですが発売当時大流行したこの作品の正体は、現在のラブコメ漫画でもエロゲでもなく……作品名は『春色梅児誉美』。

作者の名前は……『水野忠邦による天保の改革で手鎖の刑に処せられた』として日本史の教科書にも登場する『為永春水』だったりしますw。

なお上に紹介したあらすじは恐るべきことに「意図的な改変は一切ありません」。「芸能人=辰巳芸者」に置き換えたくらいで。

所謂『人情本』というジャンルを確立させたこの物語、恐らく日本の現在の美少女ラブコメの原型と呼ぶべきでしょう。

ちなみにこの物語、最後は悪が滅び、主人公は「とある大名家の重臣の御落胤」と判明してめでたくその家の相続人に。元許嫁は本妻に、ツンデレ芸者の彼女は側室に、という身も蓋もない完全無欠のハッピーエンド(笑)で幕を閉じます。

要するに、萌えの概念は江戸末期には確立し、既に我々の中に遺伝子レベルで刻み込まれていると云っても差し支えはないのでしょう! 

なんとなく「……それでいいのか、日本人?」と云う気がしないでもないですが、きっとそれが日本人という人種にしみちレベルで刻まれているサガなのでしょうw。

さて全然話が逸れましたが。

カリージョは明治も終わりに近付いている時代であるにもかかわらず、いまなお吉原においては、男女の営みに至るまでの物凄く緩慢で煩雑な、昔ながらの手順が守られていることに感激します。

また伝説的な遊女について数多くの実例を聞かされた結果『無知な私はほんの数週間前まで、日本では遊女が誠実さの手本となりうるなどとは思いもしなかったのだ』とまで書き記しています。この点についてはまた稿を改めて取り上げることにして、今回はカリージョが書き記した遊郭での慣習からの今回のクエスチョン。

客から遊女にプレゼントを渡す際には部屋の中に必ず備えてある『あるもの』を介して行われ、遊女達はその中に入れられた恋文だの、プレゼントやら、春画などを大切にしていたようですが、この『あるもの』とは一体何でしょう?

【異文化交流クイズ】【3-7回答】川柳「バレ句」の有名な一句。『弁慶や○○は馬鹿だなァ嬶ァ』の「○○」の部分に入る、歴史上の人物とは一体誰?

異文化交流クイズサードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第7回は江戸後期、庶民の間に流行ったエロチックな内容の川柳「バレ句」の中の有名な一句。男女の営みを知らない歴史上の人物をからかった『弁慶や○○は馬鹿だなァ嬶ァ』の「○○」の部分に入る、歴史上の人物とは一体誰でしょう? という問題でした。

今回の正解は・・・絶世の美女と歌われながらも「深草少将の百夜通い」で分かるよう、誰からの求愛をも受け入れなかった天才歌人『小野小町』でした。

小町は、特に能の分野では「草紙洗小町」「関寺小町」「卒都婆小町」など様々なモチーフの対象にされたりしますが、和歌の名手として褒め称えられると同時に、表舞台から姿を消した後半生に関しては、(何ら根拠がないにもかかわらず)散々落魄した姿で描かれていたりします。

何故そのような現象が起きたのは……様々な角度から研究されており、読むとなかなか興味深いのですが、本筋とは離れますので、ここでは省略。

なお今回のバレ句については、八代目・桂文楽の十八番『明烏』の枕に使われているそうです。

ともあれ要するに、幕末当時の日本人にしてみれば「男女の営みはこの世で一番の楽しみ」であり、それを忌避しているのは変わり者くらいだ、という認識だったわけですね。

しかも当時の日本人にとって恋愛が先にあるのではなく、男女とは相互に惚れ合うものであり、その両者の関係を規定するのは性的結合である、と考えられていたのです。そして静的結合は相互の情愛を生み出し、家庭的義務を発生させるわけで。

このことと、これまでこのクイズでも何度か出題してきましたが、我々のご先祖様達の、子供の異常な可愛がりぶりを合わせて考えると「日本的家族関係の成り立ち」が見えてきそうです。が、とりあえずその辺については今回のシリーズとはテーマが別なのでまた稿を改めることにして。

男女の関係を「このようなもの」として認識していた日本人達と、キリスト教的な異性愛を当然のモノとして受け止めていた欧米人達との間に、根本的な相違が出来てしまったのは、ある意味で仕方ない側面があったのかも知れません。川田龍吉についてもこの視点から改めて観察してみると、興味深いかと。

【異文化交流クイズ】【3-7問題】西洋人の視点から映った日本人夫婦間の愛情

異文化交流クイズ、サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第7回は、少し視点を変えて「西洋人の視点から映った日本人夫婦間の愛情」についてからの出題です。

『日本人は愛によって結婚しない』と云うのは、幕末期日本を訪れた西洋人観察者達に広く流布していた考え方だったりします。

この点を端的に示したプロシャの海軍将校ヴェルナーの文章を信用しますと、

『わたしが日本人の精神生活について知り得たところによれば、愛情が結婚の動機になることは全くないか、或いは滅多にない。そこでしばしば主婦や娘にとって、愛情とは未知の感情であるかのような印象を受ける。私は確かに両親が子供達を愛撫し、または子供達が両親に懐いている光景を見てきたが、夫婦が愛し合っている様子を一度も見たことがない。神奈川や長崎で長年日本女性と夫婦生活をし、この問題について判断を下しうるヨーロッパ人達も、日本女性は言葉の高貴な意味における愛をまったく知らないと考えている。』

この文章の肝は『言葉の高貴な意味における愛』という点で、ヴェルナー曰く「性愛が高貴な刺激、洗練された感情をもたらすのは、教育、高度の教養、立法並びに宗教の結果である」。これはつまるところキリスト教文化の結果としての性愛のみが、彼らの認めるところの『愛』であり、間違っても当時の日本人の性愛意識――『男女の営みはこの世の一番の楽しみ』――などと考え方とは相容れないものであったりします。

……とこのテーマで小難しく書いても仕方ないですので、ぶっちゃけて云えば、西洋人達は幕末の日本にやってきて仰天したわけです。

春画や春本があまりに一般庶民の間に横行していたことを、西洋では「解剖学教室以外では見ることの出来ない例の形」をしたお菓子が平然と売られていることを、あまりにも平然と異性の前でも――西洋人である彼らにも物怖じせず――若い女性達が肌をさらし、時には『着物をまくし上げて身体を見せつけるようなことまで敢えて』することを。

当時の日本人にとって「性は男女の和合を保証する良きもの、朗らかなもの」であり、従って恥じるに及ばないものだったのですが、キリスト教的異性愛の観念のみが唯一の愛であった西洋人にはとても受け入れられるものではなかったわけです。

当時の日本人と西洋人の間の結婚の一部がお互いにとって不幸な結果を招いたのは、言語の違い以前に『愛』に対する観念が根本的に異なっていたことも挙げられるでしょう。

さてここで今回のクエスチョン。

江戸後期、庶民の間に流行ったものに川柳がありますが、その中で漢字では「恋句」「艶句」と書く、エロチックな内容の川柳を「バレ句」と云いました。

その中の有名な一句『弁慶や○○は馬鹿だなァ嬶ァ』は、男女の営みを知らない(と一般的にされた)歴史上の人物をからかったものですが、この「○○」の部分に入る、歴史上の人物とは一体誰でしょう?

【異文化交流クイズ】【3-6回答】英人言語学者が『日本女性は一生の間、大体○○のようだ』と云った、この『○○』に当てはまる言葉は?

異文化交流クイズサードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第6回は言語学者のチェンバレンが、日本女性について『日本の女性は一生の間、大体○○の如くに取扱われていると云った方がよい』と見解を述べていますが、この『○○の如く』に当てはまる言葉は何でしょう? という問題でした。

『日本の女性は一生の間、大体赤児の如くに取扱われていると云った方がよい』と云うことで、今回の正解は・・・『赤児』でした。

要するに、ロティに云わせれば『日本女性は何の思想も意志も持たぬ単なる人形』であり、しかもその人形から着物を剥ぎ取ってしまえば貧弱な身体しか残らず、そのような結婚生活など耐えられない、というのが『お菊さん』という小説の形を取ったわけです。

他のアジア諸国よりは明らかに地位が高かったとは云え、やはり「西洋近代の基準に従えば」日本では女性が男性に隷属していると映ったが故のチェンバレンのこの表現ですが、流石はロティと違って彼は別の側面をも見抜いています。

一生赤児のように扱われる日本女性は同時に『不用意な観察者には見抜くことのできない性質をもって』おり、それは『堅固な、殆ど厳しいとも云えるべき性質である』と云い『このか弱そうな女性がスパルタ人の心を持っているのである』と。

更にチェンバレンは『下層階級においては、中流階級や上流におけるほど女性の服従が実行されたことはない』と認め『農民の婦人や、職人や小商人の妻たちはこの国の貴婦人達よりも多くの自由と比較的高い地位を持っている。下層階級では妻は夫と労働を共にするのみならず、夫の相談にもあずかる。妻が夫より利口な場合には、一家の財布を握り、一家を牛耳るのは彼女である』……って、つまるところ、現在と変わらないじゃん、と(笑)。

維新前後の外国人観察者達の記録を数多く読んでいると実感しますが、要するに、国民性等の根本の部分と云うものは、たかが百年やそこらでは変わらない、ということですね。

【異文化交流クイズ】【3-6問題】ピエール・ロティが『お菊さん』で描いた「日本の女性」像

異文化交流クイズ、サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」。後半戦は、久々に特定の本からではなく、各種資料からの出題していきます。

「異文化間に愛情が成り立つのか?」と云うテーマで、それを「否」として描いた人物として世界的に最も有名なのが、フランス人作家ピエール・ロティでしょう。恐るべき事に、2021年の今日においても「ヨーロッパ人の日本人女性に対する偏見」の根本原因はこの人物の書いた文章なのです。

「アフリカ騎兵」で一躍人気作家となったロティが日本にやってきたのは、1885年7月8日。

彼は長崎の地で18歳の日本女性おかねと「更新可能の、一ヶ月の約束の」結婚をするものの、船の修理が終わった8月12日、何の未練も見せずに日本を離れます。

その翌年、ロティは『倦怠と無理解』の小説『お菊さん』を書き、その小説は一躍ベストセラーとなり、フランス人に日本の「ムスメ」の定番の姿を植え付けてしまいます。

内容を詳細に書くと……正直日本人としては気分の良いものではなく、普段愛国心など感心のない人でも目覚めちゃいそうなので省略。

今回のテーマである「異文化感の愛情」という点だけに絞って御紹介するにしても、ロティが1880年代の日本女性をどう描いたかと云えば……

『徹頭徹尾真面目さを欠』き、『人生で最も厳粛な瞬間の真最中でも笑う』ような、愚かしい『ばね付き人形』であり、『目方の軽い脳味噌』と『ずるそうな甘ったれた瞳』を持っている、と。。。

要するに『日本の女性は何の思想も持たぬ単なる人形である』と判断していたわけで、当然の事ながら、おかねさんとロティの間に愛情など芽生える筈もなく。

もっともそのずっと後、再来日したロティは「15年前には理解出来なかったムスメたちの魅力がやっと私にも分かってくる」と日記に書き残していますけれど。

当時の日本女性の地位が『他のアジア諸国よりは段違いに良い』と云うのは殆ど全ての記録で意見が一致していますが、それは『アジアでは』という限定付きであって、欧米人から見れば甚だ不完全なものでした。もっとも、更に踏み込んだ観察者達は「日本独自の女性の地位」を見いだしているわけですが、その点は後述することとして。

さて、ここで今回のクエスチョン。

言語学者であり、アイヌ語に関する研究でも優れた成果を残し、外国人として最初の東京帝国大学名誉教師となったイギリス人チェンバレンは、日本女性について『日本の女性は一生の間、大体○○の如くに取扱われていると云った方がよい』と見解を述べていますが、この『○○の如く』に当てはまる言葉は何でしょう?

【異文化交流クイズ】【3-5回答】龍吉が晩年、周囲の人間を驚かせることになった最後の行動とは?

異文化交流クイズ、サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第5回の問題は、龍吉が92歳になって突然取って周囲を驚かせた「ある行動」とは一体なんだったでしょう? という問題でした。

龍吉は生前、周囲の誰にもジニー・イーディーの名前を漏らしませんでした。龍吉の死の26年後、蔵書の間に隠されるようにあった手紙だけが、龍吉と彼女の繋がりを物語っています。

『貴方がイエス・キリストに心を捧げないことで何を失っているか知って下さればと思いました。私の愛しいリョウ、このことについて真剣に考えなければなりませんよ。それだけの価値のあることを私が保証しますわ』

と云うことで、今回の正解は・・・『カトリックの洗礼』でした。

信仰の道に入った龍吉は祈りと共に日々を過ごすようになり、人が変わったように穏やかになったと云います。そして昭和26年、龍吉は家族や村人に見守られながら、95年の長い生涯を閉じます。

龍吉の死後、遺族によってその金庫が再び開かれたものの、息子の吉雄が以前見つけた金髪の入った小箱は見あたらなかったそうです。ジニーの金髪は龍吉の死と共に、永遠に消え失せました。そしてその26年後、偶然に発見されたジニーとの間で交わした手紙は、現在北海道の男爵資料館で展示されています。

現在の我々的感性からすれば「龍吉は全てを投げ打ってでもジニーとの恋に生きるべきだった」という意見が大半を占めるのでしょう。

ですが、龍吉は最後の最後まで「侍」だったのかと。川田龍吉に関する物語を閉めるに相応しい一節を『葉隠』から引用します。

『恋の至極は忍恋と見立申候。逢ふてからは、恋のたけがひくし。一生忍びて思ひ死するこそ、恋の本意なれ。』

尚、今回の参考文献は「サムライに恋した英国娘-男爵いも、川田龍吉への恋文」(藤原書店)でした

「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」シリーズ後半は別の文献からの御紹介となります。

【異文化交流クイズ】【3-5問題】龍吉の晩年と驚くべき最後の決断

異文化交流クイズ。サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第5回は、川田龍吉の晩年から出題です。

完全にドックの仕事から足を洗った龍吉は北海道の地に本格的な農場を確立すべく邁進します。彼は次男の吉雄をオックスフォードに留学させて欧米スタイルの機械化酪農を学ばせ、その帰国後は親子で力を合わせて働きますが、吉雄は僅か二十八歳で病死してしまいます。

この頃から龍吉は徐々に癇癪を起こすようになりますが以下のようなエピソードが残っているそうです。

農場で忙しく働く農民のために、龍吉自ら茶を沸かし振る舞おうとします。ですが、誰もそのお茶を受け取るものはいませんでした。彼らにとって龍吉は「殿様」であり(実際にそのように呼んでいた)、殿様の入れたお茶など畏れ多くて飲めない、と。

龍吉は暫く黙って立っていたものの、やがて「そうかい。誰も飲まんのかい」と呟くとも手に持っていた薬缶を放り投げ、無言で立ち去っていった、というエピソードが残っています。

年を経る毎に龍吉の感情は荒れていき、農夫達はただ殿様殿様と奉るだけで接触を避け、妻の春猪に当たり散らし、酪農の責任者とも衝突して辞められ、ついには酪農部門を全て売却してしまいます。

妻をはじめ息子や娘達にも不幸が続きますが、それでも龍吉は生き続けました。

太平洋戦争が勃発すると自室に籠もり、かつてグラスゴーで買い求めたディケンズやドイルを読み耽り、現実から逃避していきます。

太平洋戦争終結時に龍吉は89歳に達していましたが、それでも農業への情熱だけは持ち続け、杖に縋り、農夫に籠で自らを担がせてまで、畑へと出たそうです。

さて、ここで今回のクエスチョン。

昭和23年、龍吉92歳の夏。彼は突然「ある行動」に出て周囲を驚かせます。その理由を誰にも告げずに龍吉が突然とったこの「ある行動」とは一体なんだったのでしょうか? 

ヒントとしては周囲の人々がその理由を悟ったのは、龍吉の死の26年後、彼の蔵書の中から出てきたジニーとの分厚い手紙の束だったでしょう。。。

【異文化交流クイズ】【3-4回答】川田龍吉が最初に輸入し、現在では北海道を代表するようになったある野菜類とは?

異文化交流クイズ、サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第4回の問題は「川田龍吉が最初に輸入し、現在では北海道を代表するようになった『ある野菜類』とは一体なんでしょう?」という問題でした。

今回の解答の前提条件として龍吉の父、小一郎の人生が深く関わってきます。

小一郎は三菱の創設者、岩崎弥太郎の死後、それに殉じるように三菱を退社するのですが、明治22年、当時の大蔵大臣松方正義から富田鉄之助の跡を継いで第三代日本銀行総裁に是非、という要請が届きます。

この要請を受諾した小一郎は明治29年に死去するまでその職を勤め、その死の一年前には日清戦争の戦費調達への功績により「男爵」の爵位を授けられました。

純然たる民間出身者で爵位を得たのは小一郎が最初で、その死後は龍吉が「男爵」となります。

と云うことで、もうお分かりのことと思いますが、今回の正解は・・・『男爵芋』でした。

かつて過ごしたスコットランドと北海道の気候が似ていることに気が付いた龍吉が、持ち込んだ品種は元々「アイリッシュ・コブラー」と呼ばれ、世界的にも有名な品種だったのですが、産地の農会が日本国内の産地としてのブランドを確立すべく「男爵芋」と名付けることを提案し、龍吉に了解を求めます。

『私が持ってきた芋がこのように全国に普及するとは夢にも思わなかった。あのジャガイモを男爵芋と命名することに異議のある筈はない。喜んで了承しましょう』

と云うことで、男爵芋という名前が龍吉公認の下に付けられ、今日まで伝わっているわけです。

横浜の造船ドックは恐らく龍吉がいなくとも完成したでしょうが、もし龍吉がジニーとの結婚を強行していたならば、少なくとも「男爵芋」と名付けられた品種が北海道の名産品となることはなかったわけで一つの恋の顛末が日本の農業史を左右することになった、というわけです。

さて、次回は川田龍吉とジニーに関するお話の最終回。その悲しい晩年を……。

【異文化交流クイズ】【3-4問題】スコットランド人女性との結婚が許されなかった川田龍吉のその後

異文化交流クイズ。サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第4回は、愛しあいながらも結局日本とスコットランドに離ればなれとなった川田龍吉とジニーのその後から出題です。

明治18年8月末、帰国した龍吉でしたが、遂にジニーとの結婚については父親の許しが得られませんでした。父小一郎は「財産を手に入れた次は家格を」と名家から嫁を選び、龍吉に結婚を強います。

この妻、春猪との間に龍吉は八人の子供を儲けますが、彼女は「嫁しては夫に従え」を地でいっていたようで、明治の夫婦の在り方としては決して珍しくはないものの、二人の関係は殆ど主従関係のようだったようです。

ジニーと対等の立場で自由に互いの考え方を率直にぶつけ合った龍吉としては、そのような関係は苛立ちを招くものでしかなかったようで、龍吉はたびたび癇癪を起こしたそうです。

その苛立ちを仕事にぶつけた龍吉は「日本郵船機関監督」となると、横浜に巨大なドックを建設します。このドックこそ、現在横浜のランドマークタワーの隣に繋留されている大型帆船「日本丸」を収めているドックです。

一方、届く筈のない龍吉からの返事を待っていたジニーはと云えば、龍吉と別れて約一年後の明治19年6月、同じスコットランド出身で16歳も年上の裕福な服地商人と結婚したという記録が残されています。

もっとも二人の結婚生活は長くは続かず明治29年、彼らの十年目の結婚記念日を前に夫は亡くなってしまいます。

二人の間に子供が生まれた形跡もなく、何故かその一家の墓にはジニーの母親と夫しか埋葬されておらず、その後のジニーの行方は、生まれ故郷の記録や結婚後の住所地などの記録を追っても、杳として知れません。何処か遠くで再婚して幸せになったのか、それとも。。。

龍吉の人生も順風満帆とは言い難く、横浜の巨大ドックは完成したものの、財務状況が悪化。龍吉は自ら辞任し、その後は少年時代からの夢だった農業に打ち込みます。軽井沢で本格的な欧米人向けの野菜を育て始めたのは龍吉だと考えられています。

後に渋沢栄一に乞われ函館ドックの再建も依頼されますが、その地でも龍吉は農業に励みます。アメリカやイギリスから様々な西洋野菜の種を注文し、どの苗が北海道の大地に根付くのかの精細な観察記録を残し、遂に「ある野菜の苗」が非常にこの地に適していることを発見します。

さて、ここで今回のクエスチョン。龍吉が輸入し、現在では北海道を代表するようになった「ある野菜類」とは一体なんでしょう? 

ヒントとしては現代の日本人で「それ」を食べたことがない人は殆どいないと思いますし「その名前」は「龍吉の身分」に由来するものだったりします。

【異文化交流クイズ】【3-3回答】恋人と会えない寂しさを紛らわすために日本人留学生が熱中した器具は?

異文化交流クイズ、サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第3回の問題は、龍吉がジニーと会えない日に夢中になっていた、現代の我々ならば理科の授業で一度は使ったことがある「器具」とは一体何だったでしょうか? という問題でした。

『今夜は何をしているのですか? 顕微鏡を覗き込んでいるのかしら? それとも実験の準備で蝿の頭をちょん切るのに忙しいのかしら? ねえリオ、良心が重荷を背負っているのに、どうして安らかに眠ることができまして? 死んだ蝿の霊が夜中、自分に取り憑いたりしないかと怖くなったりしませんか? 冗談ではなく、可哀想な蝿に心から同情しますわ』

と云うことで、今回の正解は・・・『顕微鏡』でした。

しかし「顕微鏡を見るのが、最近の趣味です」と恋人に書き送ってみせる龍吉の神経というのは、意外と図太いのか、それとも既に鬱が入ってきていたのか、微妙な所があります。

さて、話を本筋に戻しまして。

当初の予定より一ヶ月早く、龍吉が「横浜丸」で6月には帰国するということで、ジニーは慌てて勤務先から一週間の休みを貰い、二人は半年ぶりの再会を果たします。

この日を忘れない為に二人は互いの写真を撮ったようですが……手紙はかなりの数が保存されているにもかかわらず、ジニーの写真だけは龍吉の遺品の中からただの一枚も発見されていません。

二人が最後にあった翌日、横浜丸はドックを出航し倫敦に向かいました。ジニーは埠頭に立ち、龍吉を見送ります。

『ああ、愛しい貴方。貴方がそんなに遠くにいるのかと思うと、とても寂しくなります。でも夕方になって静かに貴方のことを考える時間が出来た時、私は神様に貴方を祝福して下さるように、貴方を導いて下さるようにお願いするのです。すると、まるで私が貴方からさほど遠くないところにいるような気持ちになります。

もし嵐が来るようなものなら私は惨めな思いをするでしょう。だった私の「水平ラディー」は海にいるのですもの。貴方の航海が順調な天候に恵まれるよう心から希望します。貴方のために心を込めて祈っています。

私の愛しい人。私はいつまでもあなたのものです。』

そして龍吉が倫敦に向かった後も二人は結婚に向けての相談、東京や横浜の川田家への連絡先など打ち合わせを続けます。……その別れが永久のものなると気付かぬままに。

ジニーからの最後の手紙の末尾には次のように書き記されています。

『私を思い出して下さるものを何か差し上げようと考えたのですが、貴方は何でもお持ちのようなので何が良いのか分かりません。それに気の利いたものを作る時間もありませんでした。ですから小さな日課の聖句集を送ります。私のためにこれをいつも傍に置いて下さい。貴方への私の願いが全て叶えられたら、貴方はいつも幸せで祝福されることでしょう。

では、さようなら、貴方。そしてもう一度お休みなさい。私の心は、いつも貴方の許にあります。愛をこめて、ジニー』

・・・龍吉が帰国した後、ジニーから受け取った書簡はただの一通も残されていません。恐らく二人の結婚に強硬に反対した父、小一郎によって、龍吉の手に入る前に処分されたものだと考えられています。

次回、その後の二人の人生についてを。

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