【新編クララの明治日記超訳版Re:リニューアル版】第35話「クララ、和宮の葬列を目撃するのこと&クララ、百年の絆を結ぶのこと」
今回分は、和宮の葬列を目撃したクララの証言、そしてクララとその子孫たちと杉田家の間に結ばれた「百年の絆」のお話がメインとなります。
明治10年9月10日 月曜日
今日授業を再開して、生徒たちが皆来たがとても嬉しそうだった。笠原さんは背中と胸に徳川家の葵の紋のついた刺し子の羽織を着て立派だった。
「旗本の家柄だから、きっと徳川公から頂いたものでしょうね」とはお逸の弁。
おやおさんのお義父様である松平確堂公は、三位様の代理として今月の2日に亡くなられた静寛院宮様、つまり将軍家茂公夫人である和宮様のご葬列にお加わりになるそうだ。
生徒達が戻って来たし、自分も勉強を始められるので嬉しい。しっかりやろう。
明治10年9月13日 木曜日
今日は長く記憶するに足る日だ。日本の首都の街を、恐らく最後になると思われる葬列が通るのを見たのだ。最後と云ったのは、文明が進めばそのようなものも消えてなくなるだろうから。
静寛院宮様は、ミカドの叔母様に当たる方だ。
少し前にその侍女が脚気という、東京に独特のとても珍しい病気にかかった。それは外国の医者にも日本の医者にも長い間治療法の分からない病気だった。侍女が死んだが、宮様はご自分にも同じ病気の徴候が現れたのでとても驚かれ、箱根へいらっしゃったのだが悪くなるばかりで、たった三十二の若さで、9月2日にお亡くなりになったのである。
宮中の宗教は神道なのだけれど、ご夫君の故将軍様が仏式で葬られたので今日、堂々たるご葬儀が仏式で行われるのだ。
宮様の経歴はそれぐらいにして、私たちの話に移ろう。
昨日富田夫人が手紙で「葵町に借りた家に行列を見に来ませんか?」と誘って下さったので、九時半に出発した。しかし、山内の周りを途方に暮れて彷徨いていると、突然声を掛けられた。
「松の木立ちの下の座席にいらっしゃい」
誰かと思えば、お逸の叔母様だったのだけれど、母は「富田家の人たちを探して来るから戻るまで待っているように」と云って行ってしまった。
私たちが侘びしくそこらを歩き回っていると今度は杉田武氏に呼びかけられた。主に兵隊たちが、暇な群衆にじろじろ見られていたので、武さんが救いの光の精のように思われた。武さんは母に会ったので、ご親切にも迎えに来て下さったのだった。
そこは小さなパッとしない日本家屋だったけれど、杉田先生ご夫妻と盛と六蔵に迎えられ、群衆の晒し者になっているところから救って貰って本当に有り難かった。最初は大勢の人が玄関の周りに集まって来たが、武さんが巧みな言葉遣いで彼らを恥じ入らせて追っ払ったので、迷惑なことはもうなくなった。すぐに寛いで、堅い梨や酸っぱい葡萄や黒パンをおいしく頂き、家にいた他の人々と知り合いになった。その中の一人、怖い顔をしたサムライがいた。
突然「カム・ヒヤ」と云うので何かと目を見張ったら、犬にこちらに来るように命じたようだ。次にその犬が吠えたら「Why do you say so?」と、英語でわざわざ。どうやら私たちに英語が喋れることを示そうとしているらしい。
あまりに待たされるので、家の前に出て待つことにした。何度も何度も失望した挙げ句、やっと警官が通り道から人を追い払いに来た。警官はひどく不機嫌で、道の片側に立ち「イケナイ!」と怒鳴った。たちまちざわめきはやみ、あたりは静まり返った。
最初に行進してきたのは、謹厳な面持ちをした厳かな足取りの歩兵中隊、それから騎兵隊と近衛兵。
次に白衣を着て、白い提灯をつけた棒を真っ直ぐに立てて持っている人が二十六名、これは雇われた供人で、その服装は変わっていた。幅広い、襞のない袴と、お坊さんのように腰で襞を取った羽織を着て、ケープのようなものを肩から背中へ垂らしており、黒い髪の帽子は額の辺から後ろへ曲がっていた。お互いに広い一定の間隔をおいて歩いていたが――残念なことに皆洋式の靴を履いていた。
次に宮様が横たわっていらっしゃる棺が来たが、これは新しい木でできた、何よりもお寺の模型といった感じの高い箱で、白衣の供人十六人が運んでおり、同じような人々が大勢周りを囲んでいた。
棺の後からは、白い宮廷服を着た五人の女官が乗った馬車が二台。女官たちは、髪に油をたっぷりつけて額から後ろへ上げ、背中に長く垂らしていた。白は日本の喪の色なのだ。この衣装と髪型は純粋に京都風の物である。
家達公の代理として、喪主であるおやおさんのお義父様が次においでになったが、とても偉い方なのだ。
棺に従ったお坊さんたちは、光り輝く様々な色の立派な衣装を纏い、めいめい外国の絨毯用の履き物を履いていたが、これは全くの新機軸だ。
お坊さんの着物の型は非常に独特の物だ。白と紫と絹のトルコ風のズボンが、黄色い模様をあしらった長い錦の外衣の下から見え、右肩から左腕の下を回して掛けている羽織のようなものは大変明るい真紅の絹製で、金色の竜や菊の模様がついていた。お坊さんたちは、一人は数珠と礼拝用の花立て、もう一人は鐘といったような、めいめい違った物を持っていた。それからせ尊い蓮の花で飾った金色のお皿を持ったお坊さんの一隊が次に続いた。
先頭に立つお坊さんたちは白布で覆った一足の履き物と、折り畳んだ大きな傘を持っていた。傘は無色の房のついた白布に包んであった。他の人たちはお皿に扇子を乗せていたが、お皿はとても優雅で、緑から房のついた紅白の絹の紐が四本垂れていた。その後に雇われた供人が二人、高さ七フィートぐらいの、紙製だが驚くほど見事な出来の大きな蓮を持って続き、次にもっと大勢の供人が来た。
それから近衛兵の一隊、そして高僧だか法王だかが、黄色と金色の煌びやかな法衣を纏ってやって来た。被り物は昔のオックスフォード大学生のものに似た形をしていた。かなりの年齢で堂々とした人だった。
この僧侶の後から来たのは、日本の貴族が何人か乗った馬車の列で、それは皇室の方々と高官たちだったけれど、皆洋服を着ていたのであまり面白くなかった。
私たちの仲間の、例のお節介な人は行列の人々について何かと意見を言い続けていたが「あ、あれが一翁だ」と我らが友、大久保氏の尊敬すべきお父様を指さして云った。
「薩摩の西郷の弟が来るぞ」
その人が云った時には辺りがどよめいたけれど、頬髭を生やしたその紳士が近づいて違う人だと分かったら騒ぎは静まった。
徳川公にそっくりの、徳川公の令弟が来られて、私たちにお辞儀をなさったので、感嘆して見守っていた群衆が吃驚して私たちをじろじろ眺め始めた。
リン・チュー公使の変わった衣装に感心していると、遠くからざわめきが聞こえ、段々大きくなって大混乱となった。大久保閣下の馬が怯えてかなり跳ね回ったために、群衆が慌てふためいたのだ。前方の群衆が逃げ、私たちの間に割り込んできたのでとても怖かった。富田夫人は押し倒され、腕と手に打撲傷を負われた。赤ん坊を連れた老夫妻が投げ倒されて踏まれた。最初は原因がなんだか分からず、馬のせいだとは思わなかったので、相当吃驚した。
行列は数人の馬に乗った紳士と、人力車に乗った下級の官吏(その中に神主も何人かいた)で終わりになった。
その後富田夫人についてお宅へ行き、昼食を済ましてから、私はウィリイの代わりに、勝氏のお子さんたちの授業をしに、勝家へ行った。
明治10年11月19日 月曜日
喜びや悲しみを伴って一日一日が足早に過ぎ去っていく。私は喜びも悲しみも平静に受け止めようと心掛けている。
困難にもかかわらず、私たちは無事に毎日を送っている。新しい日記帳を始めるたびに、 最初の日記帳のことを思い出す。母からそれを貰った時の喜びと感激――そしてその純白の頁に字を書くのが勿体なくて仕方がなかったこと。それ以来、日記をつけるのが私の第二の天性になってしまい、日記をつけないと気持ちが落ち着かない。
木挽町の生活はたいした変化もないが、先週末以来、ちょっと困った状態になっている。
使用人が金三郎一人で家事の大半を片付けなければならない。ウィリイはまだ横浜で一生懸命勉強している。
父は気に障ることがあるらしく、一週間も私たちと一緒に食事をしないし、同じ部屋にいるのさえ拒む。
私たちはテーブルを小さくして、三人だけ――母とアディと私――で食事をしていたが「小さな子供を抱えた未亡人」のような気持ちだった。
夜は音楽を楽しむこともあり、本を読んで勉強することもあった。
でも、父の機嫌も治って、今日は東京府知事楠本正隆氏と一緒に博覧会に出かけて行った。
この間、母とアディと私は、梅太郎を連れて横浜へ行った。母が、とても素敵な帽子を私に買ってくれた。絵に描けるとよいのだが――とっても綺麗で、パリから直輸入の羽根がついている。断然素晴らしい。
私たちは招魂祭のお祭を見に成瀬氏のお父様である旧幕臣の川村順次郎氏のところに招かれていた。
茶問屋であるそのご老人の家に行くには行ったが、日本に来て以来初めて見るような汚い家だった。誰も英語を話す人がいなくて、母の云うことを私が通訳する羽目になり、訳が下手であったことは間違いない。母は、早く切り上げて帰る口実として「新しい使用人に留守番をさせて出て来たが、その男は悪い人間かもしれないから、長く家を空けておけないと云って頂戴」と云った。私はちゃんと訳したつもりだったが、どうやら訳し損なったようだ。ご老人はすっかり腹を立てた様子で「私は悪い人間ではない。怖がることはない」と云った。彼が悪者で、私たちは彼と一緒に出かけるのが怖い、と私が云ったのかと思ったらしかった。
しかしこの誤解はすぐに解けて、私たちは一緒に出かけた。大変な人出で、何があるのかよく見えなかったけれど、競馬やオペラや相撲が行われているようだった。
私たちは競馬も相撲も素通りしてオペラに行った。そこも大混雑だったが、足の悪いご老人が先に立って進んで行って道をつけて下さった。見物人たちは親切に後ろへ下がって道をあけてくれた。やがてよく見える小さい高台に来たが、きりっとした若い兵隊と老水兵が丁重に案内してくれた。水兵は「バインバイ」「バインバイ」と行っていたが、あれで英語を喋っているつもりらしかった。ご老人はそこまでついて来られなくて、下が不賛成だというように首を横に振っていた。
オペラというのは昔の「能」のことであるが、あまり古い昔のものなので、誰もその意味を理解できない。
今日の「芝居」はもともと能から発展したものである。役者は屋根のある高い舞台の上にいて、その後ろに鼓や笛を吹く老人たちからなるオーケストラが坐っているが、時々押し潰した叫び声のような声を発する。彼らの音楽は世にも奇妙な取り合わせであった。
衣装は古い凝ったもので、男なのにバッスル――腰を膨らませる腰当――を穿いている。袴は日本語で「茶色」と云っているが、綺麗なクリーム色で、着物は緑色の地に金の紋が一杯ついている。頭には白い鉢巻きをしている――外国式の鉢巻きで些か興が削がれるのだけれど。この鉢巻きは後ろで結んで腰のあたりまで垂らしている。中には顔から後ろに跳ね上がったような形の黒い帽子を被っている人もいる。じっと立っている時は彫刻のように不動であり、歩く時は規則正しく厳かな歩調である。闊歩するのではなくて、能独特の足を前に押し出して
行くような歩き方。私はその荘重な動きにすっかり魅せられてしまった。
私たちが見たのは、喧嘩の場面と剣舞のようなものであったが、血が流れるわけではない。若い日本人が能に興味を持たない理由がよく分かる。流血とか興奮するようなことが何もなくて静かすぎるのだ。
見終わって高台を下りたが、普段の仕事着を着た上品な顔立ちの男性が手を貸して丁重に下ろしてくれた。群衆はこの上もなく礼儀正しく親切で、みんなが微笑を浮かべていて、怒ったような顔は一つも見られなかった。
相撲を見物するよりも、見物人を観察する方が面白かった。巨大な肉の塊りが、狭い場所で相撲を取っている時の周囲の「顔の海」は実に奇妙なものであった。
私たちは円形劇場の斜面のようなところにいたが、何段にも並んでいる顔――お下げ髪、短く切った髪、青いハンカチ、黒い眼、浅黒い顔、色白の顔等々が不思議な調和をなしていた。
大群衆というものはどこで見ても荘厳なものであり、その中にいると畏怖の念が湧いてくる。
川村氏は花火が始まるまで私たちを引き止めたがったが、失礼して帰ってきた。
「クララさんだけでも残って、後から成瀬氏と一緒に帰ればよいではないですか?」
そう云われたが、それも辞退した。
お寺はすっかり変容している――床にはベルギー製の絨毯が敷いてあり、華麗な衣を纏った僧侶は、若い陽気な人ばかりで椅子に腰掛けている。でも。
ああ、なんということ! 神道の神聖な鏡の代わりに外国製の洗面所用の鏡が掛かっている! 驚くべき変革である。
日曜日にアディと教会から帰ってくる途中でビンガム公使に出会ったが、公使は踵を返して私たちと一緒に家まで来られ、しばらく腰掛けて休まれてからまた帰って行かれた。
途中の会話は面白かった。公使は十五年前ほどに起こった通訳の殺人事件のことを話された。
「二度とそんなことがありませんように」
私がそう云うと、公使は云われた。
「私のいる間は大丈夫ですよ」
彼は祖国とご自分のお子さんのことを誇りに思っておられ、たえず両方を褒めておられる。本当に親切で人の良いご老人で、私もあの方の孫だったらよかったと思う。それにうちのモクリッジお祖父さんにそっくりなのだ。
晩にはイギリス領事館の礼拝に行ったが、出席者はド・ボワンフィル夫妻、ショー氏、パークス卿夫妻と私たちだけであった。
今朝杉田先生のところに行き、親切な対応を受けた。食事まで引き止められ、武さんの左側の上座に坐らされ、大名のように寄りかかるための肘のついた大きい柔らかい座布団をあてがわれた。 お料理の入った小さいお皿が一杯並んだ小さいテーブルが一人一人の前に置かれるのだ。
食後に結婚衣装を見せて頂いた。三枚あって、一枚は黒地に深紅の桜の花と白い梅の刺繍があった。もう一枚は地味な鼠色の縮緬で、いろんな花や花瓶が刺繍してあった。あとの一枚は白地に金の縫い取りがあった。どれも素晴らしく美しいものだった。
よしこさんと私はこの着物を着せて貰って、貴婦人のようにお辞儀をしたり、気取って微笑したりして部屋の中を歩き回った。
「クララさん、貴女が結婚なさる時にこのうちの一枚を差し上げましょう」
武さんはわたしにそう仰って下さった。
杉田夫人は綺麗な小さい青い着物を持っておられるけれど、それは盛が赤ん坊の時に、ある大名が下さったものだそうだ。
「孫のためにしまっておくわ」夫人はそう云われた。
本当に楽しい訪問だった。
新橋の方へ行く途中で皇后様を拝する光栄に浴した。皇后様は美しい衣装をまとった大勢の女官を従えて、立派な車に乗っておられた。道端にじっと立っていると、皇后様は真っ直ぐ私の方をご覧になったので、お顔がはっきり見えた。
明治10年11月20日 火曜日
昨日杉田先生のお宅にいた時のことだ。
「日本人の皮膚の色である黄色は金の色だ」
武さんがそう自慢なさると、盛が一言。「銅の色でもある」
盛もなかなかやるな。私はそう思った。
父と母は種田夫妻のところに食事に招かれたので、アディと私だけで留守番をすることに。母は二人だけ置いて行くのを心配したが、都合良くそこに村田氏が来られてその話を聞き、一緒に留守番をすることを買って出て下さった。お陰で賑やかではないが、楽しい夕べを過ごした。
夕食をすませ、新聞を読み、お喋りをし、歌を歌い、チェッカー遊びをしているところへ両親が戻って来た。村田氏は立派な要望の青年に育ったが、人物もなかなか立派である。
母から聞いたところでは、種田夫妻は芝にある素敵な大名屋敷に住んでおられるそうだ。両親が到着した時、種田氏は寒い北風の中を黒塗りの大きい門のところまで出迎えて下さり、広い座敷に通されたそうだ。障子は広く開け放してあって、射し込む月の光に照らし出されたのは、部屋の中央に固まっておいてある三つの小さい火鉢と、その周りに並べた三脚の椅子であった。外の寒気を逃れるための場所としては、奇妙な場所であった。
月は煌々と照り、この上なく美しかった。星のきらめく晴れ渡った青い空に浮かぶ満月。しかしその寒かったこと。
村田氏はクリスマスと正月が住むまでフランス料理の料理人を貸して下さると仰った。
明治10年11月21日 水曜日
昨夜はあまりに寒いので、母の寝床に潜り込んでやっと暖まり、気持ちよく眠った。前からの約束で、おやおさんがおすみと音楽を習いに来られ、私たちは長いこと一緒に演奏した。
それから、母に伝言を頼まれて、ド・ボワンヴィル氏の家に行き、次に富田夫人のお見舞いに、カインと名付けたうちの金魚を持って行った。この金魚はある日、兄弟を半分食べて殺してしまったのでこういう名前になったのだ。
家に帰ったら新しい帽子が届いていた。お逸が来て、夕食までいた。
「ちょっと来なかっただけなのに、一年ぶりみたいな気がするわ」
お逸はお父様のためにのために、プディングを作った。
【11月19日の日記の最後、杉田家でなされた「約束」の行く末について】
この日記の翻訳者であり、海舟の曾孫。お逸のすぐ上の姉、疋田孝子さん(海舟次女)のお孫さんの下巻の後書きから貴重な証言をご紹介。
『数年前に、娘夫婦の元に住むクララの末娘ヒルダ・ワトキンズ(海舟の孫)を姉とともに訪ねた時、ヒルダは鼠色の縮緬の着物を着て私たちを迎えてくれた。これこそ日記で詳しく描写されているように、クララが杉田家を訪問した際に見せて頂いた婚礼衣装で、同家の長男武さんがクララが結婚する時にあげると約束したものであった。翌年の日記では杉田家を訪問したクララに杉田夫人が同じ約束をしている。私は杉田家の二人の約束がきちんと守られ、その婚礼衣装が百年余りの間アメリカで大切に保存されていたことに感動した。』
【新編クララの明治日記超訳版Re:リニューアル版第35回解説】
「杉田家とホイットニー家の百年の絆の証、というわけですわね。素敵ですわ」
「最終的にクララは子供たちを連れてアメリカに帰ってしまうことになるのだけれど、それでも如何に日本での日々で培った絆が大切なものであったのかの証となる着物だよね。 私もこの話を最初に聞いた時、ホロっときちゃった」
「“そこ”に至るまでを描くのが、この超訳日記の主題なのでしょう? ということで、早速いつもの解説に戻しますわよ」
「冒頭の和宮様の葬列ですけれど、和宮様についての特別な解説はいらないよね?」
「公武合体の証として、将軍家茂公の夫人となった皇族の女性、ですわね? そして皇女が武家に降嫁し、関東下向した唯一の例」
「そう、その通り。ちなみに、和宮様が亡くなったのは先年クララ達も訪れた箱根の塔ノ沢温泉ね」
「しかし死因が脚気というのは、意外ですわね。しかもこの当時のことだから当然だけど、伝染病扱いされていますわ」
「所謂“江戸患い”よ。玄米ではなく、精米された白米を食べるのが原因で起こるね。もっともこの後もしばらく医学的な原因は不明のままで、ようやく『ビタミンB1欠乏のため』と分かったのは1900年代に入ってから。そして所謂“ビタミン”を最初に発見したのは鈴木梅太郎博士だけど、その発見者としての栄光も“ビタミン”という命名も、西洋人に持っていかれてしまうのだけど」
「はいはい、そっちの鬱憤晴らしは別のところでおやりなさい。また本題に戻りますけれど、葬儀が皇族なのに神式ではなく、仏式というのも奇妙ですわね」
「仏式になったのは和宮様の『家茂の側に葬って欲しい』という遺言を尊重するためね。だから、墓所は徳川家の菩提寺である増上寺になっているわ」
「ということは、このクララの目撃した葬送の儀式は、徳川家ゆかりの人間の葬列と考えて見差し支えないのかしら?」
「規模は全然違うんだろうけれどね、基本的には同じなんじゃないかな? そういう意味でも貴重な記録なんだと思う」
「さて、和宮様の話はこれくらいにして、他の点についての解説を。
アメリカ公使のビンガム氏が云っている“十五年前ほどに起こった通訳の殺人事件”というのは、ヘンリー・ヒュースケン通詞の暗殺事件のことですわね?」
「親日派……かどうかの評価は別として、日本の習俗にとても興味を持ってくれた人なのに本当に残念なことだったわ。この方の日本での記録は『ヒュースケン日本日記』の名前で翻訳され出版されているので気軽に読むことが出来ます」
「あと、招魂祭というのは、道教起源の招魂祭で宜しくて?」
「起源は多分そう。でも日本の場合、陰陽道に姿を変えていて、最も大きな違いは、日本の陰陽道では死者に対しては行わない点かな? 日本の場合は『身体から魂が離れると病気になる』って考え方をしていたから、病気快癒の儀式だと考えればいいと思う。だから競馬があるのも、相撲があるのも、芝居があるのも、元々はちゃんと“そういう意味”からだった筈……だけど、多分、この頃には普通の“お祭り”の一環みたいになっちゃてるよね」
「とはいえ、伝統というものはちゃんと残っていくものだとも思いますわよ? 特に今回登場したクララの日記の“若い日本人が能に興味を持たない理由がよく分かる”の件を見ていますと。百年以上前でも今と同じ事を云っていたんですもの、きっと百年後も同じ事を云っているでしょうね」
「さて、とりあえず本日の所はこの辺で、かな? あ、でも最後に一言。弟を食べた金魚に“カイン”と名付けるセンスは親友ながらどうかと思う。まあ、クララが命名したとは限らないけどさ」