異文化交流クイズ、ジャポニズムシリーズ第8回。今回は再びアール・ヌーヴォー関連の話題からの出題です。

ジャポニズムが第二の隆盛期を迎えたのは、前述の通り1890年頃になります。

初期のジャポニザンたちがマネ、モネ、ゴーギャン、ゴッホなどの(当時としては)前衛作家たちだったのに対し、この時期になると絵画だけでなく、版画、ポスター、装飾品の分野にその影響力が現れてきます。

というのは、絵画は比較的早めに印象派の画家達によって「市民文化」と呼ぶべき芸術が構築されるわけですが、装飾品に関しては、ルイ一五世式、ロココ様式といった古い様式が未だに幅を利かせる一方、一般市民たちは機械生産による画一的で、粗悪な日常品を使う以外ない境遇に甘んじていました。

これに関してはこのジャポニズム特集の第2回で取り上げたフランス人批評家が、日本で体験したことを綴ったこの証言が、ある意味裏付けているといえるでしょう。

『この国においては、ヨーロッパの如何なる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまで行き渡っているのだ。どんなに慎ましい住居の屋根の下でも、そういうことを示すものを見いだすことが出来る。ヨーロッパ人にとっては芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権に過ぎない。ところが日本では芸術は万人の所有物なのだ』

そんな時代背景の中、フランスでは市民社会に見合った近代デザインが、日常の生活の場で楽しめるための装飾品が時代の要求として求められ、まさにそこにジャポニズムがすっぽりハマりこんだわけです。

この動きの原動力となったのが第6回で紹介したサミュエル・ビングで、彼の出展した店の名前「アール・ヌーヴォー」が、新たに生まれたこの時代の装飾様式の名の由来となったのは前述の通り。

この運動が絶頂に達したのが1900年のパリ万博であり、この際ビングは「アール・ヌーヴォー・ビング」というパビリオンまで出展し、これによりフランスのみならず、欧米各国にアール・ヌーヴォーが浸透していくことになります。

アール・ヌーヴォーの特徴としては、定義的に云うと「絡まった蔦やうねる波のような流麗な曲線、植物や昆虫などの自然のモティーフの多用、象徴主義、唯美主義への沈潜が挙げられる」とありますが、こういう小難しい話より一番分かりやすいのが「なんでも鑑定団」でもお馴染みとなったエミール・ガレのガラス工芸ですね。

さて、このガレ。ロココ芸術の栄えた町ナンシーの装飾的伝統を受け継ぎ、イスラム陶器からエナメルの表現を、中国ガラスからカメオ・ガラスを工夫し、ジャポニズムからは細やかな自然のモティーフを取り入れ、あの芸術的なガラス工芸を完成させるわけですが、このガレに直接的な影響を与えた日本人がいます。この人物の名を高島北海と云い、1885年から3年間ナンシーに留学していた折りに、日本のモティーフや季節感などを直接伝え、その後のガレに強い影響を与えます。

さてここで今回のクエスチョン。この高島北海、後に(1900年以降)画家となるのですが、この当時は画家でも何でもなく、明治政府の「一官吏として」留学していたわけですが、この高島北海は一体何の勉強の為に留学をしていたのでしょうか?