「帰ってきたクララの明治日記 超訳版」解説も、前シリーズと同じく解説を、お逸(勝逸子。勝海舟三女)とユウメイ(中国系アメリカ人初の正式な女医)に。
このシリーズも今回を含め残り三回となりましたので、今回から「まとめ」に入らせて頂きます。


【帰ってきたクララの明治日記 超訳版解説第15回】
「このシリーズも今回を含めて、残り三回。
というわけで、今週からまとめに入らせて頂きますわ」
「というわけで、まずは解説を務めさせていただいた私たちについてから述べていくよ。
クララの親友の一人であったメイこと、キン・ユウメイ――漢字で書くと金韵梅――は、元々清国人の牧師の娘でした。
しかし孤児になったところを、二十八年間清国で宣教師として活動していた英国人マッカーティ氏の養女として貰われ、氏がお雇い外国人として日本に呼ばれた際に一緒に日本にやってきました。
1864年生まれで、クララと初対面の頃は12か13歳だったのかな? 
その頃からしっかりした性格で、上昇意識が高く、クララは三歳年下の彼女の態度に驚かされる描写が見られます。
一時期クララの隣家に住んでいたことがあり、1878年頃のクララの日記には頻繁に登場してきています。
クララの日記から推察するに、1880年前後にアメリカに留学したようで、1885年にアメリカで教育を受けた最初の清国出身女性となっています。
凄いよねー、二十歳そこそこでお医者様だもの。
そして後半生は清国で医者及び社会活動家として活躍し、1934年に亡くなっています」
「一方、お逸こと勝逸子は勝海舟氏の三女です。
お妾さんであった増田糸さんの子供ではありましたが、実を云えば、明治以降その亡くなる時まで、勝海舟氏の身の回りの世話を一手に引き受けていたのは、お逸の生母であるこの増田糸さんで、数多くいた勝家のお妾さんでも特別な立場にいたようです。
もっとも、それでも表向きには一切お逸の生母であることを見せず、お逸を呼ぶ時でも“お嬢様”と呼んでいたらしいですので、本当にお妾さんの立場を徹底していたようですわね」
「何度かこの解説でも書いているけど、私の娘たちである長女理代、次女正代は学校に通うために――正確に書くと明治24年から――勝家に寄宿していたのだけれど、たみ母様を生母だと信じ込んでいて、そしてたみ義母様も本当の孫と全く変わらず愛情を注いでいたので、娘たちは随分長じて、それこそ結婚後に私に問いただすまで実の祖母が、父様の世話をしていたお妾さんだとは全く知らなかったの。
真実を知った時は随分落ち込んだようよ、私の娘たち」
「全く会ったこともない相手が祖母だった、というならば兎も角、増田糸さんはずっと同じ勝家にいたのだからなおのことでしょうね」
「理代と正代は、先週紹介した小鹿兄様の長女であり、徳川精氏と結婚した伊代子さんとは姉妹同然で勝家で育ったので、長命だった正代の証言を通じて、勝海舟晩年の勝家の貴重な様子を知ることが出来ます。
勝家で出される食事は本当に幕府の貧士同様に質素なものであったこととか、私が里帰りする時には、父様の好きな西洋菓子――銀座木村屋のアンパン、築地「かめや」のバターと竜眼肉――を買って帰ると喜んで食べていたこととかね。
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「お逸の旦那様となられた目賀田種太郎は、元々は七百石取りの幕臣で、明治に入って留学してからはハーバード大学法律学科を卒業した超エリート。
専修大学を設立したり、日本の近代音楽教育の発展にも貢献――クララが日本に持ち込んだ「蛍の光」が今日のように広まったのは恐らくクララの義兄となった目賀田種太郎との関係から――したりもしていますが、主として大蔵官僚として辣腕を振るいます。
官僚としても極度の潔癖性で、諸方面からの付け届け、贈物は一切拒絶し、無理に玄関に置いて帰ったりすると書留で送り返すくらいの徹底ぶり。お逸はお逸で、勝氏やたみ夫人から教わった通り、徹底的に日常から質素を旨とした生活していたようですわね。
目賀田種太郎氏は、後には乱れきった当時の韓国政府の財政顧問として王室の乱脈財政の大整理を行い、日露戦争の論功行賞では男爵の位を貰い、最後には義父の勝海舟と同じく枢密顧問官にまで登りつめています。
ちなみに、韓国政府の財政の乱れっぷりについては、当時の韓国国王や王妃にかなり親しい立場にあり、クララの日記にも登場し、日本では“日本奥地紀行”で有名なイザベラ・バードの記録、「朝鮮紀行」で今日でも赤裸々に分かりますわ」
「私は二男四女に恵まれ、旦那様も独力で男爵まで登り詰め、概ね幸せと云って良い人生を過ごした……ようだけれど、唯一の悩みの種は長男の綱美のこと。
少年の頃から顔に痣があって、それが全身に広がり、旧友から馬鹿にされるほどまで悪化して、登校拒否に。
そこで皮膚科医学が進歩していたフランスに連れて行ったものの、結果は芳しくなく。
その代わりに綱美はパリで社交ダンスに熱中し、それに熟達したわ。
それが皮肉なことに、帰国後、上流階級では社交ダンスが大ブームで、本場仕込みの“バロン・メダカ”は教師として引っ張りだこになったって話」
「確かに、勝海舟の孫としては“微妙”な役立ちっぷりですわね。。。」
「……昭和の戦時色が強くなると“バロン・メダカ”は所沢の飛行場に通って飛行機の操縦を覚えたのよ。
娘の証言によると、小石川原町の目賀田邸の上空に綱美が飛来した時、予め打ち合わせて、外に出て空を仰いでいた私は、ハンカチを振って合図し、驚喜したそうよ。
『あの子は、今にお国の役に立つ時が、きっと来ますよ』って」
「……やはり貴女は紛れもなく“勝海舟の娘”だったのですわね。
ただ貴女がお父様ほど筆まめだったら、明治文化史の貴重な資料になったことは間違いなかったでしょうに」
(終)


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