今週も「帰ってきたクララの明治日記 超訳版」第16回をお送りします。
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1884年9月27日 土曜
この邸の六人目の死を記録しなければならない。
ヨシである。
私たちの悲しみの時に、あんなに頼りになってくた人、善良な杉岡氏は、今召されてしまった。
二、三ヶ月前神戸に行って以来、肺病におかされた。
奥様――クメイさんの娘――はここに留まっていたが、二、三週間前に迎えが来た。
そして私たちは病院で彼が亡くなったことを昨夜聞いたばかりである。
ヨシは善良な青年で、熱心なクリスチャンであった。
常に正しいことをしようと務め、しばしば私に自分の計画を話していた。
アメリカに行きたいこと、宣教師になりたいこと、自分のように教育を受けたがっている貧しい青年たちを助けるために、お金持ちになりたいことなどを。
いつも私のことを親切に考えてくれ、よく私が日本語の使い方を完全に知っている、と言っていた。
気の毒なヨシ。
昨年のクリスマスには、なんとよく笑い楽しんでいたことか。
ああ、私の兄弟よ。
あなたは、私になんと愛想よくしてくれたことか。
今は勝屋敷から行った人たちの住む天国の居留地にいることであろう。
ほかの人たちも、あなたからどんなにか熱心に、ここの一番新しいニュースを聞きたがっていることだろう。


私たちは先週東京で恐ろしい台風に会った。
千戸以上の家が破壊され、約三十人の命が失われた。
神様のお恵みで私たちは安全であった。
ハパー博士夫妻が清国から来られて、私たちの家に滞在しておられたが昨日発たれたばかりである。
清国公使館のシェン氏とロン氏が昨日、私たち一同に清国の料理をご馳走してくださった。
博士が疲れて、あまり遠くへは行かれないので、ここへ料理人とともに料理を運んで来ることを許してほしいと言われた。
シェン氏が食卓の上座に坐り、ロン氏が下座にご亭主役として坐り、私たちは両側に坐った。
自分の食卓でもてなしを受けるのは滑稽であった。
第一のコースはスープで、兄はさり気なく、どんな種類のスープかとたずねた。
「タッグ」
シェソ氏は言った。
(犬!?)
私は心の中で叫んだ、
「そんなことだろうと思ったわ」
「何とおっしやったのですか」
ウィリイがもう一度たずねた。
「タッグです。鳥の一種ですよ」
そこで私たちは、それが罪のないダック――つまり、アヒルであることがわかってほっとした。
次のコースは詰め物をした魚で、次にはあひるを豚や野菜といっしょに小さく切って、その皮の中に入れ戻したものが出された。
次に鶏肉と栗、詰め物をした茸。
次にもち米、シトロン、干柿、蓮の種で作った奇妙な清国のプディング――これはほんとにおいしかった。
続いて木の実、干した果物、砂糖漬けなつめやしの実とシトロン。
漂白した西瓜の種が最後であった。
シェン氏は、清国の若い婦人にとっては、種を優雅に割って食べることがたしなみと考えられていると言った。
西寛二郎夫人がこの附近に適当な家が見つかるまで、子供さんたちと一緒に、私たちのところにいらっしゃる。
昨夜聞いたことであるが、ご主人は仲間の兵隊たちにいつも説教をしておられたそうで、亡くなられた時には九十人が墓地に行って礼砲を撃った由。
兵隊たちは東京から説教者を送るように夫人に依頼して来た。
上官はクリスチャンであるという理由でご主人を迫害し、夫人に対し三ヵ月分の給料と、当然受けられるお金を差し止めた。
このために上官は政府から免職された。


1884年11月12日 水曜
井上馨伯爵が天長節の三日に舞踏会を催され、ウィリイと私は公使のご家族と一緒に出席した。
大きな催しで、約千五百の招待状が出された。
場所は春にバザーが開かれた鹿鳴館
部屋が区切られていたので、前よりさらに小さく見えた。
ほとんど全員が出席した。
ビンガム公使はロウ長官夫妻をつれて来られたが、ロウ夫人は絵のように美しかった。
白い髪の毛をしていたが顔の色はみずみずしく若々しかったので、きっと髪に粉をつけているに違いない。
本当にお若い方なのだと思わせるほどであった。
しかしお嬢様が二十七歳か八歳なので、もちろんそうしたことは論外である。
夫人は薄水色の服で、ダイヤモンドを身につけ、前世紀風の髪形をして、ちょうどワシソトン夫人の絵のようだった。
ミス・ボアソナードが私に囁いたようにとても上品で、誰でもロウ夫人を好きになった。
この夜の服装は格別に立派だった。
私は九鬼夫人がご出立の時にくださった錦の帯のドレスを着ていった。
出席できたのはうれしかっだけれど、あまり楽しくはなかった。
あまりにも人がいっぱいで、また暑すぎた。
ミス・ビンガム、ワッソン夫人、ロウ長官夫妻、ミス・ロウ、ワシントン氏、ガワード氏、ウィリイと私という顔ぶれだった。


私たちは、皇居の中の美しい部屋で一同が到着するまで待ち合わせ、行列を作って、美しい庭園を通って菊畑まで歩いて行った。
山あり、谷あり、小さな流れあり、ほとばしる急流あり、壮大な森の木がたくさんあって、人工の山と濠にかこまれた正真正銘の「幸福の谷」であった。
絵のような建て方の休憩用の小さな家があちこちに散在していた。
華やかな装いのヨーロッパの婦人たち。
鮮やかな色の制服を着たフランスの海軍土官たち。
宮中服を着て小さな灰色の蛾から大きなすばらしい、深紅や紫、緑や金色の蝶に変身した日本のご婦人方の絵巻物のような行列は、美しい庭園の木々の間を見えかくれして進み、ついに広々としたところに出た。
そこには、日除けの下の藤紫の幕でおおいをしたところに、日本の誇りであり栄光である菊の花が、実に王者の風格を示して咲いていた。
見事な栽培の成果であり種類と絶妙な色には限りがなかった。
忍耐強い日本の園芸家のみが、その技術を駆使してこのような傑作を生み出すことができるのである。
ある茎は三、四百の花をつけていたが、あるものは一本の茎にたった一輪だけ花をつけるように仕立てられていた。
大きな白い雪の球のようなのもあれば、巨大な雛菊のようなのもあった。
やがて両陛下の行列がお通りの時、私たちは一列になった。
そして天皇陛下と皇后陛は公使たちと握手をなさり、新人は紹介された。
それから宮廷のご一行に続いて私たちは天幕に入った。
そこで両陛下の御前でおいしいご馳走をいただく間、楽団が音楽で一同をもてなした。
両陛下は天幕の一方に威儀を正して坐られ、レモネードを飲み、異国の客をご覧になって楽しんでおられた。
昼食後私たちは、さらに菊を見に出かけ、天皇陛下のお列にまじった。
両陛下は握手をして私たちにはわからないところへ去って行かれた。
私はやさしいお顔の有栖川宮妃殿下が大好きになった。
この方はこの国の皇太子妃で、美しいお目をして、楽しげな微笑をなさり、うっとりするような英語をお話しになる。
ドイツのデュルソドルフ伯爵夫人とたいそうお親しいようだった。


しかしこの二つの素晴らしい場所よりも、私は新しい日本画の師匠幸野楳嶺先生宅を訪問した時のほうが楽しかった。
先週の土曜日お宅に招待され、なかなかおうちが見つからなかったが、やがて高輪方面に行く小路のはしに偶然見つかった。
とても可愛らしい小さな家で、普通の大きさの男ならかがまないでは入れない入口があった。
右手の客間は骨董でいっぱいであった。
幸野先生は、自称、骨董収集家である。
私たちは二階に案内されたが、小さな窓から屋根にはい出て、そこから梯子を上って、下を流れる川の上につき出ている鳩小屋のような部屋へ行った。
屋根の上には風呂桶があり、幸野先生は、毎日、湾から引いた水で水浴をするそうだ。
雨の日には傘をさして!
二階の部屋は僅か二畳半であったが、ここも骨董でいっぱい。
特に古い物が置いてあった。
思いがけない隅々に装飾的な形をした小さな窓があり、その一つの窓枠は竹でできていて、寺院の入口の形をし、小型のお寺の鐘がそこのかなめ石になっていた。
同じ種類の別の鐘が丸太の柱の柱頭になり、黒い木製の頭蓋骨が台になっていた。
片隅に戸棚があって画家の作品がいっぱい詰まっていたが、火事の場合にすぐ運び出せるように、すっかり包装されていた。
老師の言によれば、それが彼の最大の宝物なのだ。
狭い庭にはもう一つの更に小さい家があって、幸野先生はそこに一人で住み、奥様と使用人は大きいほうの家に住んでいる。
ここに、先生が料理のための小さな器具を持ち、大きな日よけ帽子をかぶって、やっと身体をまわせるくらいの小さな小さな台所があった。
もう一つの部屋も珍品がいっぱいあり、母屋よりさらに一層珍しいさまざまな窓があった。
たとえばお寺の鐘の形の窓や、難破船の舷窓など。
兄はこの小さな家に頭をつっ込んだが、よほど苦労しなくては入れなかっただろうと思われる。
兄は叫んだ。
「いや全く、こんなすばらしい家は見たことがない」
「お分かりでございましょう。主人は古女房のほかは何でも古い物が好きでございまして」
奥様は笑いながらおっしゃった。
幸野先生はほんとに変人だ。
そして今までにお会いした中で一番端正な老紳士である。
親切で忍耐強い先生であり、私はすっかりこの方が好きになってしまった。
(このあとクララは1887年4月17日までまとまった日記をつけていない)