【第30回】戦争とマスコミと民衆(弐)
前回は、幕末に来日し、その生涯を愛する日本のために捧げ、日本の未来をも確かに変えたフランシス・ブリンクリーについて紹介しました。
前回分でも末尾に記しましたが、彼の生涯だけを見れば「美談」でしかありません。
しかし彼の子供、ジャック・ブリンクリーの生涯を通じて見ることにより、戦前の光と影を垣間見ることが出来ます。


ジャック・ロナルド・ブリンクリーは、フランシス・ブリンクリーと水戸藩士の娘との間に生まれた日英ハーフです。
彼は暁星中学卒業後に、ヨーロッパ各地の大学に留学。父の興したジャパン・メイル社に務めた後、英国に帰り第一次大戦では陸軍将校として従軍。
第一次大戦後は再び日本に戻り、国連に出向したり、ロンドンで新聞記者などをしたりしていましたが、1929年に再来日し、成蹊高校で英語の教鞭をとることになります。
しかし第二次大戦の勃発が、日英の架け橋となろうとした彼の運命を一変させます。
当時の政府は、軍部は、日本にとってかけがえのない恩人であるフランシス・ブリンクリーの息子である彼を、しかも半分日本人の血を引いている彼を、事もあろうに「敵国人として」全財産、並びに父のフランシスに関する資料さえ廃棄させ、国外追放処分してしまうのです。
それでも彼は戦後、すぐ日本に戻ってきます。戻ってきてくれます。
当初はGHQの極東軍事裁判検事団の翻訳課長としてでしたが、その任を終えると英国政府に申し出て軍籍を離れ、再び日本の大学で英文学の教鞭を、ついで日英間の文化交流を図るための出版社を興します。
彼は古武士、高僧を偲ばせる風格を備えた白髪、長身のイギリス人紳士、という奇跡のようなバランスを備えた人物であったそうで、実際天台宗からは権僧正の位を頂いています。
そして父親と同様、この日本で生涯を終えた時、葬儀は仏式で行われ、天台宗からは遂に「僧正」の位まで与えられました。
その戒名は「三宝光院僧正正慈恩大和尚」。
まさに彼と彼の父親の生涯そのもののような名前を与えられたのでした。


現代の視点で過去を一方的に糾弾することが誤りであることは承知しています。
当時の日本が好き好んで戦争に突入したわけではないことも十分承知しています。
人種差別撤廃を国際機関で訴えたものの、欧米諸国からは完全に黙殺され、挙げ句、世界各国に移民した日本人達が差別されたことも重々承知しています。
それでも。
それでもこの国にとっての恩人の息子を、ただ「敵国人の血が半分流れている」という理由だけで全財産没収の上、国外追放するような当時の政府や軍部、そしてそれを更に煽り立てたマスコミ、その煽りに迎合して彼らを迫害した当時の民衆が「正しいことをした」などとは到底云えません。
今はブリンクリー家の例を挙げましたが、明治日本にとっての恩人ともいうべき人々の子孫が、第二次大戦時に国外追放もしくは厳重監視下におかれ、挙げ句自殺してしまった例が他にもあるのです。
勿論、公平を期すために付け加えるなら、同時期にアメリカやカナダにいた日本人、並びに日系人強制収容所送りとなっていたことも歴史的事実です。
それでも、例外はありました。
勝海舟の三男、梅太郎と結婚し、六人の子供をもうけた後、アメリカに帰国したクララ・ホイットニーの子供たち、つまり勝海舟にとっての孫たちは、第二次大戦当時も日本人の血を引くにも関わらず、強制収容所に入れられていません。
これは長男のウォルターが第一次大戦時に志願兵として参戦し市民権を得ていたこと、そして地域の人々が彼らを「善良なアメリカ人」として受け入れ、守っていたからに他なりません。


さて、前振りが大変長くなりましたが。
現在マスコミが太平洋戦争を振り返る時の図式は「軍部・時の政権=悪、民衆=被害者」が専らです。そしてマスコミは「我々の努力及ばず、軍部に都合の良い記事を書くように強制された」と被害者面をします。
ですが、詳細は皆さんで調べて頂くにして貰うことにして、今日“色々と話題となること”が多い長野毎日新聞は「第二次世界大戦中も反戦を訴えた唯一の新聞社である」ということを自負し、現在も“大変ユニークな”報道姿勢を取っています。
……現在の長野毎日新聞の報道姿勢はさておき。
同新聞社が自負していること自体は概ね事実でしょう。
特に有名なのは、昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論をくりひろげ数多くの筆禍事件を引起したことで知られた桐生悠々で、彼が信濃毎日新聞主筆として書いた「関東防空大演習を嗤う」と題する社説は都市空襲を受けるならば日本の敗北は必至であることを予言したことで名高いです。
ですが。
逆に云うと、この桐生悠々だけがそれなりの規模の新聞社で正面切って軍部批判したから今日知られているのであって、彼以外の大新聞は唯々諾々として、いえ、むしろ積極的にといっていいほどに軍部の後押しをするような記事を載せ、民衆を煽り立てたのです。
かといって民衆が一方的な被害者かといえばさにあらず。
今も昔も変わらず、マスコミというのは基本的に「読者が望むもの」を提供するのであって、逆は滅多にありません。
折悪しく到来していた世界的不況に苦しんでいた民衆は“景気のいい話”を、有り体に云えば“戦争での派手な勝利による優越感”を得ることを望んでいました。
そして軍部による統制は確かにあったものの、マスコミは民衆の望む“都合の良い未来”を提示し、民衆はそれに乗りました。
第二次大戦開戦前夜、どれだけ多数の地方の民衆団体が政治家や軍人達の元を訪れ「鬼畜米英打倒!」を叫んだかは今日では殆どタブーとなってしまっています。
そんな過程で生まれた根拠のない優越心は“流れる血の半分が日本人のものではない”という理由だけで迫害される人々を作り出し、最終的には民衆自身にあの惨劇をもたらしました。
もっとも、追放された人々も日本国内にそのまま留まっていれば被害に遭っていた可能性が高いという意味では救われた格好になった、というのは歴史の皮肉ですけれど。


さて、話を現代に戻して。
世は最悪期は脱したと思われますが、世界不況の真っ直中。
民衆は「景気のいい話」を求め、マスコミはそれに「迎合する記事」を、事実を歪曲、隠蔽しつつ報道しています。
しかし今度こそ「責任転嫁先」はありません。
この後、日本に如何なる禍が降りかかろうと、あくまで責任は民衆とマスコミにあります。
それだけは忘れないで、今度の投票に望んで頂きたい、と自分は考えます。
(続く)


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