異文化交流クイズ「異文化としての吉原」最終回の今回は、再びグァテマラ人小説家カリージョの体験のままに、吉原の姿を改めてもう一度見ていきましょう。


幕末維新当時の記述が少ないので詳細なことは分かりづらいのですが、少なくとも幕末の十年程は吉原もかなり衰退していたらしく、花魁道中でも豪奢な衣装がが別個に用意されるわけではなく、客の前に出る衣装と同じ服で行っていたようです。
『吉原での束の間の恋は、手順が恐ろしいほど複雑かつ難解で、儀礼が多く緩慢である。カルロス三世の宮廷もかくやと思われるほど厳格な昔ながらのしきたりが設けられている。』
それが明治期になると再興され、再び隆盛を誇る事になります。もっともカリージョの記録からみると、江戸期の様々な時代の姿を折衷した形で「再現」している格好のようです。


『まず、取次ぎが案内してくれる大広間に花魁が入来するときには、まるでお姫様のように迎えなければならない。もっとも実際にお姫様のようなものである。花魁には、王宮に仕える侍女のような二人の舞妓が付き添って着物の裾を引いている。』
ひとまず客の前に姿を見せてお辞儀だけをすると花魁は立ち上がり、客の前から姿を消します。恐らくこれが「初会」と「裏」の代替なのかと。
『やがて二人の舞妓が現れ、お辞儀をし挨拶をする。彼女らに促されて、贅沢な木造りの長い廊下を渡っていく。かなり歩いた末にやっとわが恋の巣となる部屋に通される。畳の上にベットとなるべき布団があるのが嬉しい。横になってもいいのだろうか、まだいけない。性急という言葉は吉原には存在しないのだ。』
昔の手順の「代替」とはいえ、この頃になると完全にカリージョも吉原の空気に取り込まれてしまっています。


『まず舞妓の艶のない象牙のような指で衣類を脱がせて貰う必要がある。客が望もう望むまいと、抵抗しようとしなかろうと、どちらでも同じ事である。結局は、その土地の約束事に従わざるを得ないのだ。
裸にされると次なる儀式が待っている。麻の敷布が肌に心地良く触れるようにするため、風呂に入れられ香水をかけられる。よろしいどうにでもして下され。子供のような舞妓たちの手が濡れた体を拭いてくれる。』
読んでいても思わず吹き出したくなるほどの、もう完全にまな板の鯉状態w。
男という生き物は洋の東西、反応は変わらないということもまたよく分かりますねーw。幕末から明治期にかけて、本国に妻子のある欧米人達が遊郭にはまり込んでしまっていることを宣教師達が嘆いた記録が残っていますが、事前に吉原の知識を持って来日したカリージョでさえこの有様ですから、彼らが骨抜きになっても仕方なかったのかも?


『さあ、やっと婚礼の新枕だ……が、相手がいない。二人の付添の少女たちは何度もお辞儀をし、廊下側の小さな紙の戸を閉めて出て行ってしまった。行灯の薄赤い光が広い部屋を仄かに照らしている。白壁の上に行灯の明かりが何か不思議な影を映し出している。それは竹林の中で長い翼を広げている朱鷺の姿だった。
遠くから三味線の音が聞こえてくる。私はポツンと一人きりでいる。ずっとそのまま。何の物音もしない……と明らかに衣擦れの音がする。忍びやかな足音。ジャスミンの香り。彼女が来た。先程までのあの龍や鳳凰の刺繍入りの衣装ではなく、今は明るい色の薄い着物をゆったりと纏っている。やっと来たのだ。
二人の舞妓が寝床の端まで付き添ってくる。そしてまた挨拶を始める。荘厳で悠長な挨拶。これを終えると彼女は私の左側に身を横たえる。すると忠実なお付きの少女たちが床を緑のベール(蚊帳)で、例の如くゆっくりと覆っていく。』


このシリーズで何度も書いてきていますが、あくまで以上紹介した例も、そしてこれまでの回で紹介してきた遊女たちとの間の、煩雑で、緩慢で、華麗この上ない、まるで物語の中のお話のような事例も、吉原の最高級レベルの持てなしであり、一般の下級遊女たちの扱いとはまるで違っていました。これはまた客の方も真なりで、最高級の遊女たちと遊ぶことは、一般庶民たちには夢のまた夢でした。
それが分かっていながらもなお、吉原にそれ以上の人を引き寄せずにはいられない「華」があったからこそ、客は吉原で遊ぶことを至上の楽しみとし、そして(カリージョにとっては衝撃的な事実だったようですが)、遊女たちが吉原の遊女であることに誇りを持てたわけなのです。


さて、ここで今シリーズのラストクエスチョン。
遊女も人気商売である以上、客相手に如何に気を惹くかを常に考えていました。本命の「いい人」がいても、そんな事はおくびにも出さず、客には「主さんが一番でありんす」と男を騙す算段を尽くすことを「手練手管」といった訳で。
その最たるモノが「きぬぎぬ(「衣衣」又は「後朝」と書く)」と呼ばれる別れ際の「手練」で、これは明け方、相手の男を送り出すときに如何にも別れるのが惜しいような態度をすることで、次回も指名して貰おうとするもの。男の方も「演技だと分かってはいても」江戸っ子としては、無碍にできない訳で。
これ以外にも「口説」と呼ばれる恋の恨み言を敢えて男に聞かせる手法、「髪切り」と呼ばれる自らの髪を客に渡す手法(髪は客自身に切らせ、共犯意識を持たせるという徹底振り)、「爪剥ぎ」「指切り」という文字通りの手法(実際には普通に切った爪だったり、作り物だったり。後者は「天保異聞」で狂斎がアトルに見せてましたね)があったりした中で「起請彫り」という手法もありました。
これは映画やドラマでも時折出てくる手法ですが、要するに客の名前を「○○さま命」などと身体に刺青で刻むモノだったりします。もっともこれにしても全てが全て必ずしも本当に刺青をしたわけではなく、当然紛い物もありましたし、男が変わると以前の起請彫りをお灸を据えることで消して新た施主の名前を入れ直す、というなかなかに涙ぐましい、と云うか「したたか」と云うべきかw、なかなかに大変だったようです。
さて、ここでクスエチョン。ある遊女は客の名前の代わりにある程度『被り』がある『あるモノ』を刺青し始めたのですが、それでもあまりに頻繁に男を変えすぎて、身体中『それ』の刺青だらけになってしまい、名物遊女になってしまった、という殆ど笑い話のような話があるのですが、この遊女は名前の代わりに『なに』を刺青として彫っていたのでしょうか? ヒントとしては、この遊女の客は武家が多かったのかと思われます。もっとも『それ』は武家に限ったものではなく、商人でもある程度の大店だと『それ』が普通に通用したかと思われます。
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