【クララの明治日記 超訳版解説第70回】

「今週も先週に引き続き、サラリと書いてあるけれど、実は重大な証言が潜んでいたりします!」

「またこのパターンですの?」

「以前アメリカのクララの家に来たことがあることから名前だけは以前から出ていたけれど、今週初登場の松平定教氏。

クララが書いている通り桑名藩の若殿様なのだけど、この方の前の桑名藩の殿様がクララの日記に頻繁に登場している松平定敬氏なのね」

「今回の音楽会にも招かれていますわね。以前松平邸で開催された音楽会では逆の立場でしたけれど。よほど音楽好きのお殿様でしたのね」

「そうそう、そんな感じ。そしてクララの日記で定敬氏以上に頻繁に登場する高木貞作氏の元の主君ともいうけどねー」

「十歳しか違わないと言うことは親子ではないですわね。血縁ですの?」

「二人は義理の兄弟で、松平一門として血縁は血縁なんだけど……実際の血の繋がりとしては限りなく薄いかな? 

以前紹介したとおり、定敬氏は“高須四兄弟”の一人で、美濃高須藩からの養子で桑名藩を継いでいるから」

「実兄は確か会津藩主にして幕末の京都守護職である松平容保氏でしたわよね? 新撰組の雇用主でもある」

「うん、その兄を補佐する形で京都所司代になったのがこの松平定敬氏なわけ。就任当時、弱冠十九歳。

ちなみに就任二ヶ月もしないうちに発生したのが池田屋事件で、三ヶ月目に起こったのが、いわゆる“蛤御門の変”ね」

「……とんでもない激動の真っ直中に放り込まれた方ですのね。

クララの日記だと、少々堅物気味の、ただ音楽好きにしか読み取れませんのに」

「更に王政復古から鳥羽伏見の戦いの流れの中での立ち位置を大雑把に説明すると

徳川慶喜公=恭順派、松平容保・定敬兄弟=過激主戦派、ね。

恐らくこの松平兄弟がいなければ、鳥羽伏見の戦いはもっと違った形で勃発していたと思われるわけ」

「? 『勃発しなかった』の間違いじゃありませんの?」

「うぅん。慶喜公がいくら恭順派でも、部下の九割九分は主戦派なんだもの。

何処かで一戦交えて“敗れて”いなければ、部下たちは納得しなかったでしょうね。

そういう意味では、江戸開城が速やかに進んだのは、この鳥羽伏見の戦いの敗戦のお陰、ともいえるわけ」

「象徴的な敗北、というわけですのね? 確かに歴史にはそういう流れを決定づける戦がありますわね。

ところで、その過激な主戦派の松平兄弟が、徳川慶喜の大坂脱出の際に付き従っているのはどういうことですの?」

「これはぶっちゃけ“拉致”に近かったみたい。

実際、主戦派二人を大坂城に残しておいたら、大戦争勃発の恐れがあったから慶喜公の判断は間違っていなかったと思う。

で、当然の事ながら、帰ってきた江戸城において兄弟共に主戦論を展開。

慶喜公に拒絶されてからは、桑名藩の飛び地があった越後でまず長岡藩の河井継之助らと組んで徹底抗戦。

そこで破れると今度は兄の本拠地である会津城に。

更に兄に命じられ、最後には函館に向かい、配下の桑名藩士は土方歳三率いる新撰組に合流。

もっとも江戸脱出以降、桑名藩士は土方歳三大鳥圭介氏の軍と合流して戦闘しているから、今更なんだけどね。

それにしても、まあ、波瀾万丈というか、幕軍の負けの象徴みたいなところに居合わせているというか」

「なんだか過激派であると同時に、疫病神にさえ思えますわよ、この流れだと」

桑名藩も当然そう思ったわけで、このまま新政府軍に刃向かっていると桑名藩全体が朝敵扱いされかねない。

そんな危機感から、殿様が越後にいるとき恭順派の家老が説得して連れ戻そうとしたわけだけど」

「……この時ですのね、高木氏に命じて家老をバッサリと殺らせてしまったのは」

「クララ、二人の過去を知ったら随分たまげるでしょうねぇ。

クララの前だと、高木さんなんて“陽気ないい人”で、酒が入るとすぐ真っ赤になって上機嫌になる人だしね。

松平定敬氏に至っては“趣味は良くないけど、音楽を啓蒙する志だけは立派な人”ぐらいにしか思ってないもの」

「それはそれで、クララの人物評はひどすぎる気が致しますわよ。それなりに世話になっているのに」

「で、まとめとして函館戦争前後の話。

家老を殺っちゃった後、高木氏はほとぼりを冷ましてから函館まで殿様を追いかけていったのだけど、当の本人は榎本の叔父様の勧めもあって、なんと上海にいたとか。

考えてみるとこれって、明治日本で初めての“海外高飛び”なのかな?」

「何故唐突に上海に?」

「このままだと捕らえられ、最悪処刑、よくても一生幽閉か、とでも考えたんじゃないのかな? 

普通の国の革命劇なら珍しくもない展開だけど、幸い明治維新の時はそんな無駄な血は流さずに済んだわけだけど」

「確かに、それは日本の国にとっては幸運なことだったでしょうけれど、その後どうなりましたの?」

「どうなるもこうも、上海で手持ちのお金が尽きて、どうやら国内に戻っても重罪にはならないという目星をつけたらしく、帰国して新政府に出頭してるよ」

「……なんという尻切れトンボですの」

「多分この辺の事情もあり、戊辰戦争で明治政府に逆らった人物たちをテーマにした小説などでも、松平定敬氏は異常なほど目立たないよね。

“兄のオマケ”で名前が上がる程度で、幕末維新期にそれなりに活動した人物としての注目度の低さは半端じゃなかったり。

確かに己の行動で数多くの人間を犠牲にした張本人が、たった十年後にはすっかりアメリカナイズされ、アメリカ人の家で若い女の子と鞠投げしていたら、キれられても仕方ないよね〜」

「勝氏が維新後、あまり表舞台に出て来ようとしなかったのは、その辺を自覚していたからなのでしょうね。

信念に基づいた行動とはいえ――そして結果的に、その行動のお陰で多くの人間の命と日本の国そのものを守ったとはいえ――自分の決断によって、数多くの人間の人生を歪めてしまった。

その責任を取る意味で、維新後の勝氏は表舞台から去ったのでしょう」

「政治家が“自分の決断の責任を取る”というのは元々はこういった意味を持っていた筈なんだよね。

“自分の進退と引き替えにある種の政治決断”を下す、っていう。この一番代表的なのは日米安保更新ね。

ところが最近の政治家たちのそれは、ただの“引責辞任”だもの。本当に情けない」

「本筋と離れるから、現代の政治批判はそれくらいにしておきなさい!

あと他に今回分で注目すべき点はありますの?」

「この日の演奏会に出席していた“東儀氏”だけど、この家系は身分こそ低いものの千三百年以上、雅楽世襲してきた近衛府楽家の家柄だよね。

もっとも調べてみると、幕府に仕えていた“東儀氏”もいたみたいだから、どっちの家出身なのかは分からないけど」

「数年前に話題になった演奏家東儀秀樹氏は、後者の出身のようですわね。

この日の他の参加者から致しますと、宮内庁側の東儀家の方のようですけれども。

とりあえず本日のところはこの辺で宜しいですわね?」

「あ、最後に今週は疋田氏の金言でしめさせてよ」

『やさしい人は付き合うのにはよいが、厳しさがないと家を治めることはできない』

「ま、『国というものがなんだか分からない』なんて平気でほざくルーピーには到底無理な話だけどさ!」

(終)