1879年1月30日 木曜日 

昨日の午後、お逸と私は月琴の練習していたときのこと(いま巷でも月琴が大流行なのだ!)。

使用人のタケが入って来て、笠原という紳士が外に来ていると告げた。

私たちは勿論彼の出現に驚いた。

とりわけ彼の服装に驚いた。

それは“かかし”でも恐れをなすようなものだった。

ウィリイの一番古い洋服――黒っぽいシャツ、編んだネクタイ、前が破れたスボンに穴のあいた靴下を履いていた。

一年間散髪したことがない様子で、肩まで房々と髪が垂れ下がっている。

「お化けみたいね」

お逸の感想は至極もっともなものだ。

ともあれ、私はウィリイに変わったことでもあったのではないかとギョッとした。

しかし笠原は、兄は元気だと彼は云い、函館に用事があって出て来たと云った。

だけど、話しているうちに、彼の真意がすぐに分かった。

今度公使として倫敦に赴任される富田氏が英国に行かれる時に使用人としてでも連れて行って欲しいと頼みに来たのだった。

勿論そんなことは断られるに決まっている。

条件の良い職を捨ててこんな馬鹿げた冒険をするなんて、本当に愚かなことだ。

富田夫人も彼に愛想を尽かして「いけない」ときっぱり仰った。

今日の昼食にはサイル夫人、ド・ボワンヴィル夫人とミス・ワシントンをお招きしておいた。

しかし、土砂降りの雨のため、ド・ボワンヴィル夫人だけが見えた。

サイル夫人は三年程前に転んで以来雨天の時には外出しないのだ。

それで午後は気持ちの良い客間に腰掛けて『デイリー』紙に約束した記事を書いた。

築地の火事のこと、婚姻関係の変化、国会議員リード氏の処遇、琉球処分のことなど広範囲の題材がある。



今日使用人の弥三郎に暇を出した。

最近は上手くいっていなかったのだ。

ケライとして田中を雇っておく価値が今日はじめて分かった。

今まではこういう種類のことは全部私がしなければならなかったのだが、それはつらい仕事であった。

ところが今日はまったく偶然のように疋田氏がみえて、田中とお話しなさった。

しばらくするとが呼ばれ「給料を下げるがよいか」と云われた。

彼は深々と頭を下げ、しかしハッキリと拒絶の意を示した。

「旦那様のお気に障るかも知れないが、病気の妻と五人の小さい子供を抱えて給料が減っては困ります」るのだと答えた。

(ちなみに、本当は弥三郎に子供は二人しかいない!)

疋田氏はしばらく遠回しに話をあれこれなさってから、云われた。

「二、三日休暇をやるから新しい仕事を探すように」

弥三郎は間抜けではないのでこの意味を了解した。

「それでは新しい職場を探す間、二、三日この家にいても宜しいでしょうか?」

「いや、解雇された後にまで留まることはできない」

このあと唐紙がそっと開いて、疋田氏が静かな声で「クララさんはおいでですか」と仰った。

そこで私が出て行き、緋毛氈の上の火鉢の近くに坐って、話し合いに加わる。

「予告なしに急に追い出すのは気の毒ですけど、家で食事をするとなると、新しい料理人と喧嘩をするかも知れない」

私が正直なところを告げると、疋田氏が殿様然として、腕を組み、唇をぎゅっと結び、眉をひそめて云われた。

「ではすぐに暇を出そう。喧嘩をしたければするがよい。そうすればもっと早く追い払う口実ができる」

疋田氏は実際いつもとはまるで別人のように殿様然とした態度で腕を組み、険しい目つきで腰掛けておられ、田中は彼の足元に恭しく跪いていた。

彼はこういう事に慣れておられて、使用人の扱い方について私にいろいろ忠告してくださった。

不都合があった時には怒って、その怒りの声を田中に代弁させればよいのだ。

「やさしい人は付き合うのにはよいが、厳しさがないと家を治めることはできない」

それが疋田氏の意見だった。