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TYPE-MOON、まどかマギカ、ひぐらしのなく頃に業、呪術廻戦、進撃の巨人、鬼滅の刃等最新アニメ・漫画・ゲームの情報・感想・海外の反応等を毎朝夕紹介。艦隊これくしょんイラスト紹介コーナーは毎日0時更新

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クララの明治日記 超訳版第71回−6

1879年3月2日 日曜日

また雨降りの日曜日。

この陽気は本当にいやだ。

今日、日曜学校でマクラレン氏、ジョージと私の三人で「働き人はその報いを受けるに値する」という文章について討論をした。

活発な討論で、マクラレン先生の方が分が悪かったと思う。

私たちは福音の伝道者がもっと克己の精神を発揮し、キリストの教えを厳しく守ったほうがよいのではないかという点を論じた。

クラレン先生は現在の宣教師たちが立派な邸宅に住み、贅沢な生活をしていることに対する弁解として、故郷から遠く離れていることを挙げた。

それは事実であり、身を挺して宣教に当たっている立派な人たちのことを私たちがとやかく言うべきではないだろう。

しかしジョージは熱っぽく反論していた。



クララの明治日記 超訳版第71回−5

1879年3月1日 土曜日

『3月は子羊のように訪れ、獅子のように立ち去る』

諺にはこうあるが、どうかそうなりませんように。

今日のところはとにかく穏やかであるが、いつまでもこういう陽気であって欲しい。

私は元気いっぱいで母の部屋を掃除した。

それから私が所属しているクラブの図書を借り出すために、母と英国公使館に行った。

係の女性がいなくて、守衛のウッドが名前を控えてくれた。

昨日メイ・ブラウンとアニー・ブラウンが来た。

「明日昼食を一緒に食べてから永楽町の展覧会に行こう」

そう誘ってくれたので、公使館の帰りにマッカーティ先生のお家に寄った。

アニーはいつものように黙り込んでいた。

背は益々高くなったが、一体いつ成長が止まるのだろう?

綺麗な黒のアルパカの洋服を着て、白い毛織のコートに、前面に赤い荊の蕾の飾りのついた茶色の帽子を被っていた。

帽子の上に小さい白いベールを掛けていたが、これは顔を白く見せる。

ところが私がかけると、かえって黒くみえて、まるで日本人のようになるので、私には被れない。

昼食はとても愉快だった。

先生は折りあるごとに、洒落を飛ばして絶えず皆を笑わせ、とってもユーモラスだ。

こんな人と一緒に暮らすのは楽しいことだろう。

二時に展覧会に行って、素晴らしい展示物を見た。

お天気が曇りですっきりしなかったため、人出が少なくて助かった。

古い銅の花瓶や貨幣はとても面白かった。

特にマッカーティー先生は漢字が読めるので、いろいろ説明して下さったから余計に面白かった。

綺麗な展示物を全部見てからバザーに行くつもりだったが、時間が遅くて駄目だった。

アニーはミス・キダーのところで日曜日を過ごすために駿河台に行き、私はマッカーティー夫妻と一緒に帰った。

マッカーティー夫妻の家からは人力車で帰ってきたが、途中で火曜日の村田氏の招待のことを伝えるため富田家に寄り、しばらく赤ちゃんをあやした。

赤ちゃんは私にすっかり懐いている。

実際誰よりもよく懐いていると富田夫人は仰っている。

家に帰ってみたら母が二人の日本人の客の相手をしていた。

一人は上野栄三郎氏で、もう一人は金沢からみえたご老人であった。

この方は近く金沢に帰られるので、ウィリイに紹介して欲しいと云うことだった。

上野氏は歌うのがお上手で、商法学校の有名な先生である。



クララの明治日記 超訳版第71回−4

1879年2月28日 金曜日

アディはひどい風邪で今日は一日中寝ていた。

風邪は厄介だ。

殊にアディのように活発な子供にはつらい。

昨日お逸が沢山の諺を教えてくれて、一々説明してくれた。

その中で一番面白いと思ったのは「鬼も十七」というのである。

クラレン夫妻がブルーシーを連れて訪ねて来られ、アディのことを大層褒めて下さった。

夫人はアディが今まで見たことのないような可愛い子で、自分の娘もあんなに良い子に育って欲しいと思うと云われた。

食後に、母と一緒にヤマト屋敷まで歩いて行った。

桐野屋敷を通り抜けて行く近道を母に教えるためである。

その帰りに測量をしている人たちの間に入ってしまったが、私は気付かなかった。

一人が手で向こう側に渡るようにと合図をしたので、私は慌てて通りを横切りた。

そして、通りすがりに丁寧にお辞儀をして「お邪魔しました」と云うと、彼も恭しく頭を下げた。

御門のところでキンに出会ったが、水を汲んでいたので「ゴクロウサン」と云って会釈した。

次に大工に出会って、お糸や保爾と一緒に「こんにちは」と云った。

帰宅後、津田氏がみえた。

「明日宮様のところへ行くので、いつクララさんが訪問したらよいか聞いて来ます」

それから、漢和英辞典を編纂するのを私に手伝って欲しいと云った。



クララの明治日記 超訳版第71回−3

1879年2月26日 水曜日

昨日母は気分が悪くて一日中寝ていた。

晩に勝夫人が見舞いに来てくださった。

長い間あれこれとお話をなさったり、新聞に出ている面白い話をきかせて下さった。

本所のある大名の奥様が車夫と駆落ちをした話。

大名の妾が殿様と二人の家来ともう一人の人物との殺害事件に荷担していた話。

そんな話とかである。

「女は不必要に心配がちですから」

そう云われて、母にウィリイのことは心配しないようにと仰った。

「私も若い頃は心配性でしたけれどね、年をとって世間の見聞も積んだので、何事も最後はうまくいくと思うようになり、あまり心配しなくなりました」

それはキリスト者のような考え方だ。

今日午前中に銀座へ行った。

とても良いお天気だったので、母も外出した方が気分がよくなるかと思ったので、一緒に出かけた。

久保町のお茶屋に行って、魚と栗を注文した。

待っている間に一人の年輩の女性が赤ちゃんを抱いて出て来て、私たちに赤ちゃんを見せるために近づいて来た。

年齢を尋ねたら八月生まれという返事だった。

名前は杉一郎といって、宮内大輔の杉孫七郎氏の坊ちゃんだということだった。

可愛い赤ちゃんだったけれど、随分みすぼらしい格好だった。

どうして杉氏は息子さんにもっと良い着物を着せないのだろう?

私は不思議に思った。

あまりにも気持ちの良い陽気だったので、家に入るのが勿体ないようだった。

お逸は午後から夕食までいたが、食事の最中に使用人が来て、おやおさんがみえたと云ったので、お逸はお客様の接待をしに帰って行った。

そこへ村田夫人がシャツの作り方を習いに来た。

やがておやおさん、おすみ、お逸が小泉氏を従えて勝氏のところから帰って来て、みんなで家の食堂に入り、テーブルの周りに坐った。

「まあ、素敵な色」

おやおさんは派手な毛糸に心を惹かれて私の編み物を取り上げ、私はかぎ針編みを始め、おひささんはシャツを縫い始めた。

お逸とおすみは怠け者の役で、いろいろ滑稽なことを云っていた。

「どう? 私、“紙持ち”でしょ?」

懐に紙をいっぱい入れそう云うおひささんに私は問い返す。

「私にはいま“金持ち”って聞こえたたけれど、どちらだったの?」

「どっちでも同じよ。最近のお金はみな紙ですもの」

お逸の絶妙なツッコミ。

そんな調子で、おかしなことばかり言って騒いでいた。

しまいには謹言そのものの小泉氏まで思わず笑い出してしまう始末。

そのうちにお逸やおすみも怠けているのに飽きて『天路歴程』や文芸書や、哲学書を取り出して読むことになった。

「やっぱり裁縫よりも読書の方が高級な仕事よねー」

さっきまでの自分の行動を棚に上げ、お逸はしれっとそんなことを云う。

そのあと、私たちの大好きなゲーム「私の友達をどう思う?」をして遊んだ。

対象になった人物が村田氏、梅太郎、恒五郎、キティ、ウィリイ、小泉、新左衛門などであったからまた大笑い。

私たちは裁縫の会を組織し、毎週水曜日の二時に集まることにした。



クララの明治日記 超訳版第71回−2

1879年2月20日 木曜日

今日の新聞にウィリイに関する記事が出ていた。

私は兄の名前を見つけて、何か重大なことではないかと心配になり、お逸に読んで貰った。

「大丈夫、大変良いふうに書かれているから」

お逸はそう云って喜んでくれた。

その記事には次のようなことが書いてあった。

『長町四番丁云々の師範学校のホイットニー教授は廉直さにかけて、日本青年にとっても手本になる人物である。

在日の他の外国人たちと違って、酒煙草は勿論のこと、そのほか外国人の間に普通に見られるような好ましからぬ行状はまったくない。

日本人に他国の良い風習を教えてくれるこのような青年は歓迎である。

日本人は彼のような徳の高い人物を友とすることを喜んでいる』

このような調子でその記事は書かれていた。『金沢新報』の編集者の書いたものである。

私たちはみんな喜んだ。

特に母は大喜びだった。

殊に私たちの協会の長老であったマーシャル氏が汚名を受けた後であったから、この記事は嬉しかった。

きっと私たちがいつも一生懸命にウィリイのためにお祈りしたからであろう。



クララの明治日記 超訳版第71回−1

1879年2月17日 月曜日

しばらく日記を付ける暇がなかった。

金曜日にオーシャン号が出航する前に、手紙やエッセーを書き上げなければならなかったのだ。

ティクナーさんが出して下さることを期待し、日本音楽に関するエッセーをボストンに送った。

もう一つのエッセーは『デイリー』紙に送り、一つはウィッテンマイヤー夫人に送った。

これは彼女の書いたものの中の間違いに答えたものである。

金曜日には大鳥閣下のお宅にも伺った。

しかし閣下はお留守で、お子さんたちと話をしてきた。

まず閣下の新しい油絵の肖像画や、奥様の大理石の胸像や、裃を召してちょんまげを結った閣下の若い頃の絵などを見せて頂いた。

着物は胸のところで反対に重ねてある。

おひなさんは上杉氏とうまくいってなくて、別れたがっているとのこと。

日本人の妻は決して離婚を求めることはないので、これは全く新しいことである。

おひなさんの言動は「築地で外国人について勉強したからだ」と云われているらしい。

彼女は私たちの生徒ではないので、私たちの責任にされなくてよかったと思う。

でも、私たちのところへ来ていたら、もっとよい影響を受けたに違いない。

築地にある学校の教師はオールド・ミスが多いという。

そんなオールド・ミスが結婚した女性、それも日本人の女性を教育するのは不適当なのだろう。

ちなみに、次女のおゆきさんはお友達の渡辺おやすさんのお兄様と婚約している。

お姉様よりも幸せになられますよう。

その大鳥家のお嬢様が静寛院宮、つまり和宮(二年前、彼女のお葬式に私たちは行った)、最後の将軍の前任者で、和宮の配偶者であった紀州公方、十四代将軍徳川家茂とのお写真を下さった。

噂によると、十四代将軍は大阪で毒殺されたということだ。

東京を離れる前に「ここに戻ることはない」という予感がなさったと云われている。

「余が江戸に戻る前にガンクイ豆に花が咲くであろう」

そう家来に仰ったそうだ。

ガンクイ豆とは<煎った豆>のことで、これはつまり「ご自分が帰れない」という意味だった。

その通り、彼は江戸に戻られることなく、三十歳未満の若さで、現在の天皇の叔母に当たる美しい姫君と結婚されたばかりであったのに、急死されたのである。



先週の水曜日のこと。

勝夫人のところで、お湯から上がったばかりの疋田夫人にお会いした。

しかし翌日の晩、また勝夫人のところへ行ったら、吃驚の報を聞かされた。

前日私が帰ったすぐ後、疋田家に三人目の男の赤ちゃんが生まれたというのだ。

正式には生まれて七日後に勝氏がお名前をおつけになるのだけど“静守(せいじゅ)”という名前になるらしい。

赤ちゃんにはまだ会っていないが、聞いたところによると頭と鼻が特別に大きいそうだ。

ところで、勝家の奥様は私がいつも夜にお訪ねするので、私のことを「こうもり」と仰る。

富田氏は木曜日にヨーロッパに向けて出発した。

その前に家にみえて、前夜来られたディクソン氏のための掛け物を預けてゆかれた。

ご主人が行ってしまわれて、来客もなくなったので富田夫人は淋しがっている。

赤ちゃんは健康そうだ。

昨日の午後村田久子夫人がみえて五時過ぎまでいた。

お逸も来て長いこと話をした。

芝居や踊りについて話した。

「どちらも大好き」

そう仰るおひささんに対し、お逸はにべなく「どちらも嫌い」と云った。

近頃はウィリイのことが心配だ。

彼の手紙によると、金沢の人は外国人をひどく嫌っているので、髭を生やしているのは危険だということだ。

毎日良いお天気が続いている。

太陽の光線がやわらかく、空は青く澄み、枯れたような木に蕾がついている。

やがてお寺や梅屋敷には香りの良い鼻が咲くであろう。



クララの明治日記 超訳版第70回解説

【クララの明治日記 超訳版解説第70回】

「今週も先週に引き続き、サラリと書いてあるけれど、実は重大な証言が潜んでいたりします!」

「またこのパターンですの?」

「以前アメリカのクララの家に来たことがあることから名前だけは以前から出ていたけれど、今週初登場の松平定教氏。

クララが書いている通り桑名藩の若殿様なのだけど、この方の前の桑名藩の殿様がクララの日記に頻繁に登場している松平定敬氏なのね」

「今回の音楽会にも招かれていますわね。以前松平邸で開催された音楽会では逆の立場でしたけれど。よほど音楽好きのお殿様でしたのね」

「そうそう、そんな感じ。そしてクララの日記で定敬氏以上に頻繁に登場する高木貞作氏の元の主君ともいうけどねー」

「十歳しか違わないと言うことは親子ではないですわね。血縁ですの?」

「二人は義理の兄弟で、松平一門として血縁は血縁なんだけど……実際の血の繋がりとしては限りなく薄いかな? 

以前紹介したとおり、定敬氏は“高須四兄弟”の一人で、美濃高須藩からの養子で桑名藩を継いでいるから」

「実兄は確か会津藩主にして幕末の京都守護職である松平容保氏でしたわよね? 新撰組の雇用主でもある」

「うん、その兄を補佐する形で京都所司代になったのがこの松平定敬氏なわけ。就任当時、弱冠十九歳。

ちなみに就任二ヶ月もしないうちに発生したのが池田屋事件で、三ヶ月目に起こったのが、いわゆる“蛤御門の変”ね」

「……とんでもない激動の真っ直中に放り込まれた方ですのね。

クララの日記だと、少々堅物気味の、ただ音楽好きにしか読み取れませんのに」

「更に王政復古から鳥羽伏見の戦いの流れの中での立ち位置を大雑把に説明すると

徳川慶喜公=恭順派、松平容保・定敬兄弟=過激主戦派、ね。

恐らくこの松平兄弟がいなければ、鳥羽伏見の戦いはもっと違った形で勃発していたと思われるわけ」

「? 『勃発しなかった』の間違いじゃありませんの?」

「うぅん。慶喜公がいくら恭順派でも、部下の九割九分は主戦派なんだもの。

何処かで一戦交えて“敗れて”いなければ、部下たちは納得しなかったでしょうね。

そういう意味では、江戸開城が速やかに進んだのは、この鳥羽伏見の戦いの敗戦のお陰、ともいえるわけ」

「象徴的な敗北、というわけですのね? 確かに歴史にはそういう流れを決定づける戦がありますわね。

ところで、その過激な主戦派の松平兄弟が、徳川慶喜の大坂脱出の際に付き従っているのはどういうことですの?」

「これはぶっちゃけ“拉致”に近かったみたい。

実際、主戦派二人を大坂城に残しておいたら、大戦争勃発の恐れがあったから慶喜公の判断は間違っていなかったと思う。

で、当然の事ながら、帰ってきた江戸城において兄弟共に主戦論を展開。

慶喜公に拒絶されてからは、桑名藩の飛び地があった越後でまず長岡藩の河井継之助らと組んで徹底抗戦。

そこで破れると今度は兄の本拠地である会津城に。

更に兄に命じられ、最後には函館に向かい、配下の桑名藩士は土方歳三率いる新撰組に合流。

もっとも江戸脱出以降、桑名藩士は土方歳三大鳥圭介氏の軍と合流して戦闘しているから、今更なんだけどね。

それにしても、まあ、波瀾万丈というか、幕軍の負けの象徴みたいなところに居合わせているというか」

「なんだか過激派であると同時に、疫病神にさえ思えますわよ、この流れだと」

桑名藩も当然そう思ったわけで、このまま新政府軍に刃向かっていると桑名藩全体が朝敵扱いされかねない。

そんな危機感から、殿様が越後にいるとき恭順派の家老が説得して連れ戻そうとしたわけだけど」

「……この時ですのね、高木氏に命じて家老をバッサリと殺らせてしまったのは」

「クララ、二人の過去を知ったら随分たまげるでしょうねぇ。

クララの前だと、高木さんなんて“陽気ないい人”で、酒が入るとすぐ真っ赤になって上機嫌になる人だしね。

松平定敬氏に至っては“趣味は良くないけど、音楽を啓蒙する志だけは立派な人”ぐらいにしか思ってないもの」

「それはそれで、クララの人物評はひどすぎる気が致しますわよ。それなりに世話になっているのに」

「で、まとめとして函館戦争前後の話。

家老を殺っちゃった後、高木氏はほとぼりを冷ましてから函館まで殿様を追いかけていったのだけど、当の本人は榎本の叔父様の勧めもあって、なんと上海にいたとか。

考えてみるとこれって、明治日本で初めての“海外高飛び”なのかな?」

「何故唐突に上海に?」

「このままだと捕らえられ、最悪処刑、よくても一生幽閉か、とでも考えたんじゃないのかな? 

普通の国の革命劇なら珍しくもない展開だけど、幸い明治維新の時はそんな無駄な血は流さずに済んだわけだけど」

「確かに、それは日本の国にとっては幸運なことだったでしょうけれど、その後どうなりましたの?」

「どうなるもこうも、上海で手持ちのお金が尽きて、どうやら国内に戻っても重罪にはならないという目星をつけたらしく、帰国して新政府に出頭してるよ」

「……なんという尻切れトンボですの」

「多分この辺の事情もあり、戊辰戦争で明治政府に逆らった人物たちをテーマにした小説などでも、松平定敬氏は異常なほど目立たないよね。

“兄のオマケ”で名前が上がる程度で、幕末維新期にそれなりに活動した人物としての注目度の低さは半端じゃなかったり。

確かに己の行動で数多くの人間を犠牲にした張本人が、たった十年後にはすっかりアメリカナイズされ、アメリカ人の家で若い女の子と鞠投げしていたら、キれられても仕方ないよね〜」

「勝氏が維新後、あまり表舞台に出て来ようとしなかったのは、その辺を自覚していたからなのでしょうね。

信念に基づいた行動とはいえ――そして結果的に、その行動のお陰で多くの人間の命と日本の国そのものを守ったとはいえ――自分の決断によって、数多くの人間の人生を歪めてしまった。

その責任を取る意味で、維新後の勝氏は表舞台から去ったのでしょう」

「政治家が“自分の決断の責任を取る”というのは元々はこういった意味を持っていた筈なんだよね。

“自分の進退と引き替えにある種の政治決断”を下す、っていう。この一番代表的なのは日米安保更新ね。

ところが最近の政治家たちのそれは、ただの“引責辞任”だもの。本当に情けない」

「本筋と離れるから、現代の政治批判はそれくらいにしておきなさい!

あと他に今回分で注目すべき点はありますの?」

「この日の演奏会に出席していた“東儀氏”だけど、この家系は身分こそ低いものの千三百年以上、雅楽世襲してきた近衛府楽家の家柄だよね。

もっとも調べてみると、幕府に仕えていた“東儀氏”もいたみたいだから、どっちの家出身なのかは分からないけど」

「数年前に話題になった演奏家東儀秀樹氏は、後者の出身のようですわね。

この日の他の参加者から致しますと、宮内庁側の東儀家の方のようですけれども。

とりあえず本日のところはこの辺で宜しいですわね?」

「あ、最後に今週は疋田氏の金言でしめさせてよ」

『やさしい人は付き合うのにはよいが、厳しさがないと家を治めることはできない』

「ま、『国というものがなんだか分からない』なんて平気でほざくルーピーには到底無理な話だけどさ!」

(終)



クララの明治日記 超訳版第70回−6

1879年2月3日 月曜日

昨日は聖餐式があって、ジョージ・パチェルダーが洗礼を受けたのは喜ばしいことだった。

今日の午後、田中不二麿氏を訪問したがお留守だった。

午前中には三河台のベイリー夫人を訪問した。

花房屋敷の綺麗な日本式の家に住んでいる。

木の部分は漆塗りで唐紙は金色の紙を貼り、絹地に描かれた絵が貼りつけてあった。

庭には小さい築山や庭石があり、松や竹や棕櫚の木が植えてある。

一本の松は入口の形に仕立ててある。

ベイリー夫人が歓迎して下さって、たびたび来るようにと仰った。

一番上のお子さんのリリーはアディの新しい友達である。

コニー、メイベル、アーネストもみんな可愛い子供たちだ。

ところで、ネリー、フロラ、バーティのお父様のサットン氏は中風になり、治る見込みがないそうだ。

頭もおかしくなって、奥様かイギリス人の女中以外の人には起きるのを手伝わせないということだ。



クララの明治日記 超訳版第70回−5

1879年1月31日 金曜日

笠原は外国に行くための費用を調達する目的で北海道へ行った。

彼は刀を私に預けていった。

「必要が生じた時には返して頂きますから、預かっておいて下さい。

もしヨーロッパにもアメリカにも行けないのなら、これでハラキリせねばなりませんから」

鋭利な彎曲した刃のある短刀で、切ったら痛そうだ。

風の強い陰気な一日で、私は頭痛がしたし、台風になりそうな気配で、風邪もよくならないから外出の予定を変更して家でパンを焼いた。

勝氏のお夕食にと思って少し届けたが、間もなくお逸から次のような手紙が来た。

「親愛なるクララさんへ。

貴女の素敵なパンはとてもおいしくいただきました。

父は留守だったので母と兄が皆頂戴してしまいました。

そこへ父が帰ってきたのです。

もし出来たらどうかもう少し届けてください。

逸より」

勿論私はみんなにゆき渡るだけ届けさせ、褒めて頂いてとても誇らしく思うと書いた。

「クララが作ったパンだから格別に美味しかったのよね」

お逸は後でそう云ってくれ、小鹿さんが「日本で食べたパンの中で一番美味しかった」と云ったことも伝えてくれた。



クララの明治日記 超訳版第70回−4

1879年1月30日 木曜日 

昨日の午後、お逸と私は月琴の練習していたときのこと(いま巷でも月琴が大流行なのだ!)。

使用人のタケが入って来て、笠原という紳士が外に来ていると告げた。

私たちは勿論彼の出現に驚いた。

とりわけ彼の服装に驚いた。

それは“かかし”でも恐れをなすようなものだった。

ウィリイの一番古い洋服――黒っぽいシャツ、編んだネクタイ、前が破れたスボンに穴のあいた靴下を履いていた。

一年間散髪したことがない様子で、肩まで房々と髪が垂れ下がっている。

「お化けみたいね」

お逸の感想は至極もっともなものだ。

ともあれ、私はウィリイに変わったことでもあったのではないかとギョッとした。

しかし笠原は、兄は元気だと彼は云い、函館に用事があって出て来たと云った。

だけど、話しているうちに、彼の真意がすぐに分かった。

今度公使として倫敦に赴任される富田氏が英国に行かれる時に使用人としてでも連れて行って欲しいと頼みに来たのだった。

勿論そんなことは断られるに決まっている。

条件の良い職を捨ててこんな馬鹿げた冒険をするなんて、本当に愚かなことだ。

富田夫人も彼に愛想を尽かして「いけない」ときっぱり仰った。

今日の昼食にはサイル夫人、ド・ボワンヴィル夫人とミス・ワシントンをお招きしておいた。

しかし、土砂降りの雨のため、ド・ボワンヴィル夫人だけが見えた。

サイル夫人は三年程前に転んで以来雨天の時には外出しないのだ。

それで午後は気持ちの良い客間に腰掛けて『デイリー』紙に約束した記事を書いた。

築地の火事のこと、婚姻関係の変化、国会議員リード氏の処遇、琉球処分のことなど広範囲の題材がある。



今日使用人の弥三郎に暇を出した。

最近は上手くいっていなかったのだ。

ケライとして田中を雇っておく価値が今日はじめて分かった。

今まではこういう種類のことは全部私がしなければならなかったのだが、それはつらい仕事であった。

ところが今日はまったく偶然のように疋田氏がみえて、田中とお話しなさった。

しばらくするとが呼ばれ「給料を下げるがよいか」と云われた。

彼は深々と頭を下げ、しかしハッキリと拒絶の意を示した。

「旦那様のお気に障るかも知れないが、病気の妻と五人の小さい子供を抱えて給料が減っては困ります」るのだと答えた。

(ちなみに、本当は弥三郎に子供は二人しかいない!)

疋田氏はしばらく遠回しに話をあれこれなさってから、云われた。

「二、三日休暇をやるから新しい仕事を探すように」

弥三郎は間抜けではないのでこの意味を了解した。

「それでは新しい職場を探す間、二、三日この家にいても宜しいでしょうか?」

「いや、解雇された後にまで留まることはできない」

このあと唐紙がそっと開いて、疋田氏が静かな声で「クララさんはおいでですか」と仰った。

そこで私が出て行き、緋毛氈の上の火鉢の近くに坐って、話し合いに加わる。

「予告なしに急に追い出すのは気の毒ですけど、家で食事をするとなると、新しい料理人と喧嘩をするかも知れない」

私が正直なところを告げると、疋田氏が殿様然として、腕を組み、唇をぎゅっと結び、眉をひそめて云われた。

「ではすぐに暇を出そう。喧嘩をしたければするがよい。そうすればもっと早く追い払う口実ができる」

疋田氏は実際いつもとはまるで別人のように殿様然とした態度で腕を組み、険しい目つきで腰掛けておられ、田中は彼の足元に恭しく跪いていた。

彼はこういう事に慣れておられて、使用人の扱い方について私にいろいろ忠告してくださった。

不都合があった時には怒って、その怒りの声を田中に代弁させればよいのだ。

「やさしい人は付き合うのにはよいが、厳しさがないと家を治めることはできない」

それが疋田氏の意見だった。



クララの明治日記 超訳版第70回−3

1879年1月28日 火曜日

母の具合が悪いので、私はサイル夫人が使って大変よく効いた塗布薬の名前を教えて頂きに行った。

十二時半に着いたら、丁度昼食が始まるところで、私にも食べて頂くようにと云われた。

ブニンシェー夫人と赤ちゃんもみえていて、楽しい時を過ごした。

サイル先生は、いろいろ面白い話をご存じで、奥様に「すずめちゃんはどう?」などとお聞きになった。

ミス・ワシンシンはある女性のことについて、こんな話をした。

「男という男がみんな彼女の足元にひれ伏しかねない」

でもミス・ワシントンはご自分のお母様については以前こう云っていたのだ。

「全ての男性がこの女性を蹴飛ばしかねない様子だ」と。

それにミス・ワシントンはド・ボワンヴィル夫人に、私のこと和まだ子供で付き合う価値がないと云ったそうだ。

このことを詰問すると顔を赤らめていた。

赤らめて当然だ!

帰途に築地薬局で母のために油薬を買ってきた。

それから洋書店の十字屋に寄って、ウィリイに送る本を買った。

十字屋の番頭さんはお世辞が上手な上に、今英語を勉強している。

「短期間にどうやって完全な日本語を覚えたのですか? 大抵の外国人はとても日本語が下手ですのに」

この番頭さんに、以前ミス・エルドレッドが「英語と日本語の交換教授をしよう」と申し入れてきたことがあるそうだ。

「ところがですね」

が、彼によると彼女の方ばかり練習して、彼には少しも教えてくれないので厭になったということだった。

「ミス・エルドレッドは宣教師だから日本語が必要ですけど、番頭さんは英語をそれほど必要としないでしょう?」

私はそう云ったけれど、番頭さんとしては自分を犠牲にしてまで、他人のために尽くす気はないらしい。

帰途縁日で、綺麗な形に作られた白い八重咲きの桃の鉢植えとピンク色の姫椿と福寿草の鉢植えとを買った。



クララの明治日記 超訳版第70回−2

1879年1月25日 土曜日 

昨日一日中準備をしていた音楽会が素晴らしくうまくいった。

ご招待してあった滝村氏と岩田通徳氏がみえて、五、六カ所から別々に届けられた楽器をうちの客間に用意された。

やがて銅鑼が鳴って他の六人の音楽家がみえた。

皆さん立派な和服姿で礼儀正しく、紳士的だった。

獅子のような顔に白髪の髭をはやした岩田氏。

琴を弾く教授のような感じの紳士。

大きな声に派手な身振りの滑稽な小柄の東儀氏。

前に私の注目を引いた素晴らしいテノールの持主で一等伶人である芝葛鎮氏。

皆さんが上(うえ)と呼んでいる名人の、丈の高い立派な顔の方などがみえていた。

この他に名前を存じ上げない方が二、三人みえた。

それから河村氏という笙の演奏者で、いつもしかめっ面をしているおかしな方もおいでになった。

お招きしてあった松平定敬氏も来られ、アディと鞠投げなどして陽気に振る舞っておられた。

以前には封建時代の大仰な態度が彼の特徴だったけれど、今ではそういうものは影もなかった。

すっかりアメリカ化されておられる。

最初の一曲はユニゾンで演奏され、次に声楽を加えて演奏された。

そのあと「ご馳走」の番になり、皆さんを食堂にご案内して、我が家の質素な茶菓を差し上げた。

茶菓のあと演奏者たちと勝家の皆さん、松平氏、ディクソン氏は客間に戻って、お互いに親しくなるよう話し合われた。

男性方は、女性方に椅子を譲って床に坐り、煙管と煙草を女性に差し出した。

「次はクララさん、是非一曲弾いて下さい」

大勢の本職の音楽家たちの前で弾くのは胸がどきどきした。

けれど、弾いてみると、皆さんが手や足で拍子を取ってくれ、不思議なことにいつもより上手に弾けた。

ディクソン氏は音楽家たちに恐れをなしてか「死の行進」はいつもよりずっと下手であった。

私が歌を歌い終わると、皆さんが周りに集まって来て下さった。

「クララさんの歌い方は大層上品ですね」

次にディクソン氏と私が『古今の歌』の中からやさしい歌を合唱して、盛んな拍手を受けた。

男女の合唱は珍しかった。

でもディクソン氏はバスなので、私のソプラノに合わせるのは難しい。

私としてもテノールと合唱する方がうまく歌えるのだけれど、皆さん良い合唱だったと云って下さった。

その後「いかばかり」という彼らのお仲間である東儀氏の作曲の歌を歌ってみて欲しいと云われた。

それは降る雪を見ていると親しい友人と庭を散歩したくなる、といった内容である。

私だったら、ストーブのそばに近付きたくなるところだが、私はあまりに実際的なのだろう?

もっともその曲を和琴と笛と笙の演奏で歌うとなかなかよかった。

次に七人の男性の声も加わって賑やかに歌った。

その声は家中に鳴り響き、梅の木に囲まれた東屋におられる勝安房守にも聞こえたであろう。

芝氏は綺麗なテノールで、磨く値打ちがある。

彼はオルガンの横に立って歌の先導をしたり、一緒に笛を吹いたりした。

後で音楽について彼と色々楽しく話し合った。

和琴の本を見せて下さって、漢字の読み方を教えて下さった。

私にもすぐに覚えられそうだ。

皆さんは十二時過ぎまでおいでになった。



クララの明治日記 超訳版第70回−1

1879年1月24日 金曜日

夕べはひどい暴風でよく眠れなかったが、明晩の音楽会の準備で一日中大忙し。

奇妙なことに種田氏から同じ晩の、同じような催しへの招待があった。

お逸の一番上のお姉様である内田夫人が手伝いに来て下さり、手伝う仕事があったことを喜んでおられた。

勝夫人もみえて、ご主人のためにドーナツを持ってお帰りになった。

私は月曜日の船でアメリカに送るエッセーを書くのに追われて忙しかったが、やっと完成し、母もよく書けていると褒めてくれた。

夕べウィリイから手紙が来た。

六十五マイル歩いて、くたくたになって金沢に着いたということだ。

可哀想なウィリイ。

私は時々どうしてもウィリイを呼び戻さなければならないと思う。

あんな淋しいところに独りぼっちで、きっと何か危険な目に遭うと思う。

天の神様、どうかウィリイをすべての危険からお守り下さい。 

話は変わるけれど、火曜日に松平定教氏がみえた。

アメリカから帰ってきたばかりで、とても素敵になった。

桑名藩の若殿様で、一年前に亡くなったおやおさんの婚約者と一緒にアメリカに留学していたのだ。

一緒にアメリカに行った三人の公子のうち一人だけが生き残ったことになる。



クララの明治日記 超訳版第69回解説

【クララの明治日記 超訳版解説第69回】

「今回分は冒頭の予告通り、まったりとした展開でしたわね」

「チッチッチッ、甘い甘い。実は隠れたところで、重大な証言が潜んでいるんだな、これが。

メイ、大鳥圭介氏の娘の三姉妹、知ってるわよね?」

「大鳥ひなさん、ゆきさん、きくさんですわよね。長女のひなさんは確か米沢藩の上杉茂憲氏と結婚されたのでしたっけ?」

「そう、結婚式は明治11年5月13日で、ちゃんと記録が残ってるわ。幕府最後の陸軍奉行の家と米沢上杉藩との結婚と云うことで、お互いにネームバリューは抜群。

でも、この結婚は一般には“なかったこと”になってるの」

「? どういうことですの?」

「世間一般では人気のない、というより影が薄くて、せいぜい新撰組ファンから函館戦争の時に土方歳三と対立したことで嫌われている大鳥圭介氏だけど、維新後は工部大学校長として日本のテクノクラート制度の基礎を作ったとして結構実績を残しているの。

思想的にも当時としては相当リベラルで、結構生徒たちからも慕われていたみたい。ただ日清戦争の際の外交官としての働きは賛否両論あるみたいだけど。

ということで、人物伝が何冊も出版されていて、家族構成からその後の人生まで結構分かるのだけれど、ひなさんの結婚相手は上杉氏じゃないんだよね、これが。

で、丁度少し前にNHKの歴史番組で上杉茂憲氏について、ほんの少しだけ、でも“上杉鷹山の子孫”に相応しい善行の持ち主ということで取り上げられていたので少し調べてみたんだけど、上杉茂憲氏関係の資料にも載ってないんだよね<大鳥ひなさんとの婚姻について」

「歴史から黙殺された、というわけですの?」

「歴史と云うほど大袈裟な話じゃないけどね。ただ実は彼女の人生も結構波瀾万丈で、本格的に調べてみたら面白いかも? 

ちなみに、森有礼夫人とは開拓使女学校の時の同級生だったりするんだけど……クララの日記中にはそれらしき記述はないかな?

ともあれ、結婚の話については専門家たちは当然把握しているんだろうけど、多分一般人が普通に読める文章だと、このクララの日記だけじゃないのかな、二人の結婚の記録が残っているのは?」

「ホイットニー家や勝家に関する記録は一部削除したと思われる節があるのに、他家の家庭内事情に関してはスルーですの?<クララの日記の記述」

「……いや、それは、その……クララの日記を翻訳した人も勝海舟の孫だからね。。。わたしからすると、姪の子供だけれど」

「もう宜しいですわ。確かにこれ以上はゴシップになってしまいますから、次の話題に映りますわよ。

アーネスト・サトウ氏、流石に日本人以上に日本の歴史に詳しいと云われただけのことはありますわね。

会合に参加されていた他の方も負けず劣らずで、山田長政はともかく、今時の少し歴史に詳しい程度の日本人では、浜田弥兵衛の名前は出てこないでしょう」

「当時の一流外交官や一流知識人の知識は本当に凄いよねー。大学の一般課程での日本史講義レベルでは到底太刀打ちできないレベルだもの。

もっとも名著といわれる本――例えば『大君の都』――でも、とんでもない事実誤認とかあったりするけど。この辺は長くなるので、また機会を改めて。

とりあえず、本日の所はこの辺で……」

「お待ちなさい、ここの部分の説明をしてからになさい、幕を閉じるのは。

『「天国に昇っていくような気持ちがするわね」

そう云ったお逸は「自分のお葬式の時にその曲を弾いて貰えるなら死にたい」とまで云った。』

……貴女、本当に良家のお嬢様ですの?」

「人の趣向に良家も何もないと思うんだけど。まあ、表現が過激なのは認めるけどさ」

(終)



と云った所で、今週も最後までお付き合い下さった方、有り難うございましたm(_)m。



クララの明治日記 超訳版第69回−7

1879年1月20日 月曜日 

朝、窓から外を見たら、この冬二度目の綺麗な雪が地面を覆っていた。

でもあまり熱心に私が眺めたせいかどうか知らないが、雪は間もなく解けてしまった。

十時にお逸とマレイ夫人を訪ねた。

小鹿さんも昨日訪問されたのだが、お逸は同行を断ってしまったのだ。

とにかくマレイ夫人はお逸の来訪を大変喜び、専ら彼女に話しかけた。

といっても、私が全部引き取って彼女の代わりに返事をしたのだけど。

マレイ先生もご在宅で、いつもと変わらず愛想がよくハンサムだった。

マッカーティ夫妻やユウメイも同席していた。

お逸は綺麗な着物を着てとても可愛く見え、みんなからちやほやされた。

次に私たちは森夫人を訪ねたが、彼女は和服姿でお元気そうだった。

夕べは川村純義海軍中将のところへ行かれて、国会議員のリード氏にお会いになったとのことだった。

このあと大山夫人のところに寄った。

外務省の構内にある素敵な西洋館に住んでいらっしゃる。

客間はとても綺麗で、張り出し窓が付いており、壁紙が貼ってあり、絨毯が敷いてある。

いくつか立派な銅や陶器の置物がある。

夫人は愛想が良く快活で、近くまた勉強に来ると仰った。

今日はご主人が熱海から帰って来られるのを待っておられる。

そのあと富田氏のところに寄って長いこといろんな人や物についてお話をした。

富田氏は高木三郎氏の奥様が嫌いだ。

高木夫人は傲慢で、ご両親がみえた時でも、自分は椅子に腰掛けて、ご両親は床に坐らせていた。

勝家を訪問した時の話も聞かされた。

お互いお辞儀をして「ゴキゲンヨウ」とか「ハジメマシテ」とか「ドウゾココロヤスク」とかいう言葉を勝氏の方で云われたのに対し、彼女は形式的にお辞儀をするだけで、返礼の言葉も云わず、三郎氏のアメリカ行きの費用を勝氏が出しておあげになったお礼も云わなかった。

勿論これは十年前のことだ。

しかし、それだから尚更お礼を云うのが礼儀というものだ。

母は人力車から落ちた時に傷めた背中が痛むと云う。



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